覚の怪物｜リアクション

覚の怪物

朝鳥さゆるはふらふらと夜を彷徨っていた。男との快楽も、睡眠薬の強制的な眠りへの誘いも、今宵は無意味らしい。
　チューブトップにデニムのショートパンツという、体を隠せる最低限の格好で宛もなく歩いていた。
　ふと道の先に何か、人影が見える。
「ん？」
　それは人影と表現するにはあまりに異様だった。
　毛の長い一つ目の猿のような怪物が、狙いをつけるようにさゆるを見ていた。
「……」
　客観的に見れば恐怖に凍てつ場面ではあるのだが、さゆるの感性は摩耗している。彼女は軽く頭を振った。
　しかし、
「？」
自分の心と記憶がざらりと不快な手触りで撫でられたような感触。どこかぼんやりとしていた思考に鋭い閃光が走った。
　さゆるは思わず表情を歪める。
「！？」
　全身に、治りかけていた傷口をナイフで抉られたかのような痛みが走り、さゆるの中で過去のトラウマが噴出した。
「な、あ……？」
　鮮烈な光景が次々とフラッシュバックする。
　生活をするためにあるのではないだろう、薄暗い部屋。そこに寝転がる裸体の自分。そして、永遠を感じ続けている虚無の瞳。
　ドアが開いて、部屋の空気が動いた。
あの人が、来たのだ。
「うっ」
　この場にありもしない絶望感が心を切り裂く。
膿んだトラウマの毒が心身に痛みを走らせる。唇から呻きが漏れる。耐えられずにその場に膝をつき、倒れるように地面に両手をついた。
「はあ、はあ……」
　どうにか顔を上げると、怪物はじっとさゆるを見ていた。その目から感情を読み取ることはできないが、まるであざ笑うかのよう。
「う……」
　それがこちらへ歩み出した。近づいて来る。さゆるが動けないことを知っているのだろう。ゆっくり、ゆっくりと。
　さゆるは震える手で、護身用に携帯していたバタフライナイフを取り出した。
「これで」
　刃を開いたところで、目の前に怪物が立った。鉈を持っていないほうの手で、さゆるの頭上に手のひらをかざす。その瞬間、より鮮烈な映像がリアルに蘇り、さゆるの瞳に涙が溢れた。
ナイフが……。
　あの人が……。
「あ、がッ」
　心を壊される。瞬時に悟ったさゆるはナイフで自分の腕にそれを突き立てた。
「うぐっ」
　激痛が襲う。さらに涙が溢れる。
　見ると、いつの間にか怪物が鉈を振り上げていた。
「！」
　全身を貫く痛みに意識を集中し、とっさに横に飛び退く。砕ける音がして、鉈がアスファルトにめり込んでいた。
　間一髪だ。
　さゆるはふらふらと立ち上がって、怪物にナイフを向けた。
「来なさいよ」
その言葉を理解したのだろう、怪物は鉈を振り上げた。さゆるは痛みを堪え、振り下ろされる瞬間に横へ飛び退く。しかし、怪我のせいで動きが鈍った。鉈の刃が肩を掠めたのだ。
「うっ」
　鮮血の粒が散り、体の痛みが追加された。しかし、同時にろっこん、Stella cadenteの発動条件を満たした。
　さゆるは目を見開く。ナイフを逆手に持ち替え、強化された地面を蹴った。振り回される鉈を避けながら、怪物の喉元に刃を向ける。
　強化された腕が高速で空気を撫でる。一切の躊躇なく、その喉を切り裂いた。今度こそ、鮮やかな鮮血が辺りに飛び散る。
「があああああっ」
　怪物が初めて声を上げたが、喉から漏れる咆哮には空気の音が混じっている。
　その瞬間、さゆるの脳内にトラウマの光景が鮮烈にフラッシュバックする。
「うぐっ」
　心を切り裂かれるような感覚に、血が出るほど唇を噛み締め、さゆるは倒れ込んだ怪物を睨んだ。
「このっ」
　頭、胸、腕、肩に何度もナイフを突き刺す。もがき苦しんでいるが、構わない。さゆるは無心に凶行を繰り返す。
　やがて、それは動かなくなった。
「はあ、はあ……」
　それに背を向けたさゆるは、ふらふらと、夜の闇へ消えて行った。血にまみれながら。

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