何色バスタイム｜リアクション

何色バスタイム

■鎮めのレモンバーム

　ひっそり静まり返ったシャワールームの一室から、２つの水音がする。
　一つは窓の外で降りしきる雨音。
　もう一つは、楢木春彦の纏う衣服から滴る水滴の音。
　何度目かの思考のループ。日頃快活な色を浮かべる春彦の、オリーブグリーンな瞳に苛立ちの色がありありと浮かび上がった。
　――　くそっ！
　水気を吸って重くなった上着を、無造作に脱ぎ捨てる。
　具体的なきっかけがあったわけでは無い。
　しいて上げるなら、ようやく取れた免許が現実に向き合わせたのかもしれない。
　取れた当初はそれまでの苦労が報われた達成感で、ひたすらに喜び噛み締め、そして堂々と二輪車を走らせ夢ではないのだと実感していたけれど。

　だからこそ、今この時不意に浮かんだ不安。
　免許を取ったからこそ見えてきた、熟練者たちとの差。
　霧がかったように見えぬ未来。
　今にも真っ暗闇な思考に陥りそうで、春彦は雨脚強く降る中我武者羅にバイクを走らせてきた。
　二輪車用スポーツ施設「ＮＹＡＧＯ」に着いて、何度かコースを周回してみたものの浮き上がったモヤは一向に晴れず、雑念交じりな走りも散々で。
　晴れている日ならば、顔馴染みな施設仲間が明るく声をかけて気を紛らわせてくれたかもしれないが、あいにくの天気のせいか人気もない。

　濡れたままな体に、春の雨宿す空気が火照った熱を冷やしていくのを感じれば、春彦の口が微か歪み自笑の形をつくった。
　――　はっ、ナニやってんだか……。
　石のように硬直していた腕が、のろのろ上がりシャワーの栓をひねる。
　雨のように冷たい水が頭に降り注いだのを、まるで気にせず春彦の手は栓を握りしめたまま再び動かなくなった。
　――　どうせ帰りも雨なんだし、湯冷めもナニも関係ねぇだろ……。
　胸の奥から、腹の底から、込み上げてくる何かをぐっと堪えるようにして、反対の手で拳を強く握り締める。
　冷水は自棄になりそうな思いを冷やしてくれはしたが、根本たる霧を晴らすまでにはいかなかった。
　盛大に転倒した際についた泥たちが、足元に流れ水と混じり合い渦を巻く様子を見下ろして。
　その視界に、内腿の古傷が目に入った。
　普段は至って気にしていないモノ。単にドジして事故ったと、友人に問われてもあっさり言える程に。
　ただただ余計な心配を生ませたくなくて、寮の入浴時間は人とずらしているくらいの。
　しかして、足元の泥のように濁って渦巻く思考で映す傷は、まるで己の力不足や拙い技術の証のように見えてしまい、思わず強く噛んだ口の端から赤が滲む。
　何の色も感じていなかった春彦の、モノトーンの視界にポトリと落ちた赤。
　ふと、耳の奥で聞き馴染みのある声が響いた気がした。
　鮮やかな赤色の瞳を、きりりと吊り上げてこんな自分へ喝を入れる、温度籠る声色が。
　次に聞こえてきたのは、唯一真正面から傷のことを聞いてきた、いつもより少し控えめに窺うような声。
　言いたいことを言い合う同室相手から、らしくなく心配向けられるのが格好悪くて、ついはぐらかした自分自身を思い出せば、自嘲が苦笑いへと移りゆく。

「はぁ、今日はどーにも調子出ねぇな……」

　ずっとため込んでいた言葉を、外に放ってみる。
　誰もいないはずなのに、どこか呆れるようなそれでいて励ますような、不器用そうな声たちが聴こえた気がした。
　霧が晴れたわけでは無いのに、爪食い込む握りこぶしから徐々に力が抜けていく。
　春彦はすっかりずぶ濡れの前髪を掻き上げた。
　ただ打ちつけるだけに感じていたシャワーの雨が、冷たい、とようやく認識できて。
　誰にも会わずに寮の自室までたどり着けるだろうか。
　こんな姿見られたら、なんだか情けない心の内を晒すのと同じような気がして。
　――　かっこわりぃな……。
　『今』の自分へと向けて。自嘲でも苦笑いでも無く、素直に呟いた言葉の後には改めてお湯の栓をひねり直す春彦の姿があるのだった。

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