pain　夢の中で｜リアクション

pain　夢の中で

【御巫時子の夢】

　私は、動けなかった。

　化学教師五十嵐尚輝の顔が、すぐ目の前にあった。いつもは前髪に隠れて見えないその涼やかな瞳が自分を見つめているのが分かるくらい近くに。
　ああ、これはあの時の夢だ。私は尚輝先生を前にほんの少し小さく息を吐いた。偶然とはいえ、先生と黒板で向かい合った時。ほんのちょっと動けば貴方に触れる事ができた時。
　時間が、長く感じたのだ。貴方の体温に触れてしまうような距離に、ドキドキして。貴方で胸がいっぱいになって。

　心が痛い。

　私はキュッと目を瞑った。あの時私の唇から零れ落ちた言葉が胸に蘇ったのだ。
『もう少しこのままで』
　教師と生徒は近くて遠い。分かっているのだ。想いを告げても困らせるだけなのは。
　だから、『好き』の気持ちを隠しても傍に居る事を望んだのだ。

　―――それでも、言わずにはいられなかった。

　私は顔を上げ、目の前の先生を見つめた。
　私は、尚輝先生の優しさに甘えてるのかもしれない。私がお行儀良くしていれば、尚輝先生はふうわりと私を包んでくれるのだろう。けして触れる事なく。
　どうすればいいのだろう。苦しさにどうにかなってしまいそうだ。想いを気付かれたら避けられてしまうかもしれない。でも、離れたらナシになるような柔な想いではないのだ。
　きっと、諦める事などできない。想いが募るだけ。貴方を想う度溢れ出す『好き』という気持ちは、どうやったって止められっこないのだ。
　あの時、私の手は貴方に触れる事ができなかった。けれど、夢なら。
　私は思い切って顔のすぐ傍にある先生の右手に触れた。

　その思いの外がっしりした手に、ドキリとした。心臓が口から飛び出てしまいそうだ。それでも、私はその手に絡めるように自分の手を置き、真っ直ぐに先生を見て微笑んだ。

「貴方の傍に居たいんです……」

　この胸の痛みや不安より、会えない方がきっとつらい。
　学校の長い休みは、いつも貴方の事を考えてしまう。学校に行ける日を指折り数えてしまう。
　貴方に、会いたいんです。貴方の傍に居るとぽかぽかと暖かい陽だまりのような幸せを感じるんです。貴方の傍で笑っていたいんです。
　―――お願い、私から離れないで。

　先生の手が私から離れた。私の心は絶望に包まれる。あの時も貴方は言った。『コーヒーが冷めるから』。……本当にそれだけが理由ですか？
　私は目を閉じた。もう、変わらぬ夢から覚めたかったのだ。けれど、その時。
　私は先生に抱きすくめられた。

「あ……先生……」
　彼の腕の中で私は呆然と呟いた。コーヒーと薬品が混じり合った彼の匂い。彼の暖かさ。頬が触れ合う。私は思わず先生の腕にしがみつく。すると、耳元で彼の低いぼそりとした声がした。
「僕は離れませんよ、御巫さん……」
　胸が鷲掴みにされたようだった。夢だと分かっていても。分かっていても。
　私は固く目を瞑ったまま、先生に問いかけていた。
「あの時、どうして離れたんですか？　コーヒーが冷めるからって本当ですか？」
　夢で聞いても意味がないのかもしれない。でも私は泣きそうだった。いやもう泣いていたのかもしれない。すると大きな掌が優しく私の頭を撫でた。
「だって、コーヒーが冷めたら美味しくないでしょう？　……なぜ、泣くんですか？」
　何度も何度も先生は私の頭を撫でる。その内に私の心は落ち着いてきて、その不器用な感触に笑みすら浮かんできた。
　ああ、そうだった。それが、尚輝先生だった。掴み所がなく、突拍子がなくて、それなのに優しいのだ、この人は。

　私は幸せな気持ちで先生を抱きしめた。
　大好きな尚輝先生。
　今は夢でしか抱き合えないけど。
　いつか伝えられる日まで、想いを大切に育てていきます。
　だから今だけ。しっかりと私を抱きしめて下さい、先生―――。

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