春色タペストリー｜リアクション

春色タペストリー

　休日正午過ぎのカフェはだんだん混み始めていたが、まだあちこち空席はある。
　レジそばに席を見つけて、呉井陽太は黒いスクウェアテーブルに紙カップを置いた。ホットのコーヒーだ。サイズはトール。
　この店は最近マグカップを推してくるが、陽太は断然、プラスチックのフタがついた紙カップで飲むほうが好きだ。手に持った感覚が好みだし、味も断然美味しく思える。もちろん地球環境を考えるならマグカップのほうがいいのだろうが、他のリサイクル活動には喜んで協力するから、月に一度程度のカフェくらい、地球にもお目こぼしいただきたく思う。

　今日はバイトも休みをもらっているし、生徒会の用事も先日の日曜で一段落がついているしで、文字通り完全フリーの陽太である。
　コーヒーを口にするのももどかしく、薄手のジャケットを脱いで足元の籠に入れ、陽太は鞄から分厚い本を出してテーブルに載せた。
　――これ前から読みたかったんだよねー♪
　うっとりしながらエンボス加工の表紙を手で撫でてみたりする。
　ピアノの調律について、理論的アプローチをこころみた一冊だった。
　奥付を見ると出版されたのは20年近く前である。初版。音大の学生やプロの調律師が読むような本だから、たぶん重版はかからなかっただろう。調律師界隈では名著とされているが、なにぶん狭い業界ゆえさして売れなかったようで、インターネットオークションですら目にしたことはない。
　本日陽太はシーサイドタウンそばの図書館に入り、この本を発見したのだった。本棚でこの背表紙が、光り輝いているように見えたものだ。
　帰宅してからしっかり読むつもりだけれど、もう我慢できなくて、小休憩ついでに陽太はカフェに寄り、本を開いたのである。
　あまり貸し借りされていないらしく本は綺麗だった。さっそくパラパラやって、章のタイトルや見だしに胸を躍らせる。端書きだって、一読しただけでちょっとした興奮を覚えるくらいだ。
　へへー、かなり為になる事が書いてあるみたいだねぇ。
　帰ってきちんと読むのが本当に楽しみだ。
　コーヒーを一口したところで、お？　と陽太の視線が止まった。
　陽太が座ってから数分といったところなのに、いつの間にか満席になっていたらしい。トレーを持ったまま、なにやらオロオロとしている女性の姿があった。それにしても背の高い女性だ。大きな眼鏡をしているが、ダテメガネ風で少しも似合っていなかった。
　席をとってなかったんだな、とすぐわかった。満席が近いときは荷物を置くなりして座席を確保し、それから注文に行くのがこうした店での基本である。あの女性はこうした店が不慣れなようなので、そんなコモンセンスを知らなかったのだろう。
　――うーん……。
　陽太とて座ってまだ五分少々、「ここどうぞ」と譲るのはさすがに忍びない。かといってあの人を、いつまでも立ち往生させるのも気の毒だった。
　ためらうより先に陽太は行動を起こしていた。
「あのー、よければここ、相席ですけど使って下さい」
　と、正面の席を彼女に勧めた。
　世の中には、『小さな親切大きなお世話』などと言う口の悪い人もいるけれど、仮に大きなお世話と言われたって、見て見ぬ振りをしてやりすごすほうが陽太は嫌だった。
「あ、嫌じゃなければ、ですけど……」
　すると女性は、ぺこりと頭を下げたのである。
「ありがとうございます……」
　少しハスキーな声。そして少し、小さな声だった。