【変わりゆく朝、変わらない朝】

「……あと五分……」
　起き抜けの眠気という強敵に、お決まりの文句で無駄な抵抗を試みつつ。酢酸 朔良は心の中、まるで小学生の言い様だと、自分で自分に苦笑い。
　ゆるゆるとスマートフォンで時間を確認すると、目覚ましをかけておいたはずの６時半は、とうに過ぎています。記憶はまったく持って無いものの、どうやら自分で止めてしまったようです。
「ああ……くそ。まったく……」
　ぶつくさとぼやきつつも、布団から這い出すには至らず。むしろ深くもぐって、束の間の安寧の中に留まり、彼はいつしか再び眠りの中へ……。
「サクラー？　朝だよー。まだ寝てるの？」
　軽やかな少年の声が耳に届いて、意識はまどろみと覚醒の間ほどにまで浮上するも、身動き取れず。
「んん……まだ眠いんだ、寝かせてくれ……たのむ……」
「うーん。自分で起きられないんじゃ、しょうがないよねー。えいっ！」
　どすん！
「おぶうっ？」
「ほら、サクラ！　朝！　ご飯できたから、起きて！　おーきーて！」
　ゆさゆさゆさ。身体の上に乗っかり揺さぶられては、さすがの朔良もギブアップです。
「分かった、分かった……起きる。乗っかるな、揺するな、頼むから」
「もーっ。準備できてるから、早く顔洗ってきてよね？　ほーんと、『ネギタナイ』んだから」
　覚えたばかりのそんな言葉を漏らして、少年は朔良の上から降りると、タオルを押し付けてから行ってしまいました。
「……やれやれ」
　同居人の、どこか心地よい重み。目覚めは意外にも、悪くはありません。



　ノア・ベルナールドにはいくつか、朝の日課があります。
　ひとつ、
「ふぁ……おはよう」
　枕元に寝ている、仲良しのテディベアへ、朝の挨拶をすること。
　ひとつ、同居人のため、朝ごはんをこしらえること。眠気に目をこすりながらも起きると、彼はキッチンへ向かいます。
「さて、っと。今日は何を作ろうかな」
　くりん、と小首を傾げて、ちょっぴり思案。けれどいくらもしないうち、メニューを頭の中で組み立てると、エプロンを身に着け、さっそく調理開始。
　この家へやってきた頃、ノアの料理の腕前ときたら、なんとも惨憺たるものでした。卵焼きを作ればべしゃりと破れてしまうし、ベーコンを焼けば真っ黒のコゲコゲ。控えめに言って、美味しくはない代物ばかりが出来上がりました。
　けれど、それからいくらかの時が立った今、
「よっ、と！」
　ノアはフライパンを華麗に翻し、ひょいっ！　目玉焼きはくるりとひっくり返って、見事な両面焼き。中身を割ったら、きっとトロトロの半熟状態です。この頃は着実に慣れてきたようで、卵をバッチリ綺麗に焼けるようになったのが、ノアのちょっとした自慢だったりするのでした。
「ふふん～♪　今日は特別イイカンジにできちゃった。サクラもびっくりするんじゃないかな……って、あ！　サクラ、まだ寝てるのかな？」
　せっかく上手にできた朝食です。冷めないうちに、一番いい状態で見てもらわなきゃ！　エプロンを外すと、ノアは同居人の寝室へと突撃していきました。
「おぶうっ？」
「ほら、サクラ！　朝！　ご飯できたから、起きて！」



　まずは目を見張り、それから箸でベーコンエッグを割り開き、二度びっくり。ぱくりと口へ入れてみて、三度目の驚きが、朔良の意識を完全に覚醒させました。
「……美味いじゃないか」
「ふうん。そう？　別に、もう半年も作ってるんだし。このくらい普通だよ」
　褒めてやるとツンとして、ぷいっ。顔をそらされてしまいましたけれど、近頃の朔良には、それが彼なりの照れ隠しであることが分かってきました。
　最初は自分と同じ程度、見るも無残な腕前であったはずの彼が、ここまで料理上手になったことへ、朔良は感慨深さを感じつつ。ベーコンエッグの程よい塩気と半熟加減を楽しみ、湯気の立つコーンスープをすすり。
　そしてふと、思います。
　昨夜は夜中の３時くらいまで仕事に没頭していたため、翌朝の起床はいささかまごついてしまいましたけれど……思えば昔は、そうではありませんでした。
　多忙を極めたサラリーマン時代にだって、帰宅が真夜中３時だなんてことは幾度もありましたけれど、翌日にもまた仕事は山積みで、彼は始発に乗って再び会社へ向かわなければならず、睡眠時間はあってなきがごとし。目覚ましのアラームがほんの１回鳴れば、寝覚めの良しあしはさておき、すぐにも飛び起きることができました。
（……いつから……）
　いつから俺は、目覚ましで起きることができなくなったんだろう。朔良は気づきます。いつの間にか自分が、ノアが毎朝起こしに来てくれなければ、ベッドからすんなりと起きることすらできなくなっていることに。かつてはあれほどに忙しく、仕事にばかり傾注していたというのに。
「まぁ……それも、いいか」
「え？　何？」
「いや」
　怪訝そうにこちらを見て、次いでぷいっと顔をそらした、ノア。小さな同居人。
（いいさ。今は寝坊をとがめる上司だって、いやしないんだから）



　母の病死。父と、その再婚相手も……相次いで肉親を亡くして、ノアはこの家へと引き取られました。失意の中、義母の弟……少し変わり者の、不器用で不躾で、表情の変わらない朔良との生活が始まり、そろそろ半年。
　慣れたものだと、ノアは思います。
　毎朝、てきぱきと朝食を用意して、ひとりでは起きてこない朔良を起こし、食卓で向かい合って、いただきます。そんな一連の流れが、今のノアにはようやくにして、普通のこととして身に染みてきた気がします。
　料理が楽しくなってきた頃、気になりだしたのは、それを食べる相手の感想です。何気ないそぶりでトーストをかじりつつ、思わずちらっ、ちらっ。
「……美味いじゃないか」
　少し驚いたように、彼は言いました。してやったり。
「ふうん。そう？」
　なんてそっけなく返しながらも、内心、嬉しさがこみ上げてきます。半年間、その苦労が報われた瞬間です。
　最初は彼とのやり取りも、もっとぎこちないものだったはず。それもこのところは、少しずつこなれて、やわらかく砕けてきたような気がします。
「別に、もう半年も作ってるんだし。このくらい普通だよ」
「そうか？　しかし、大したもんだ」
　今や、この家の家事一切はノアに任せられていて、朔良はその分、心置きなく仕事に打ち込めているようです。ひどくブラックだったという会社から脱サラして始めた、手作りのぬいぐるみや服を作る店……なんて、ちょっぴり似つかわしくない気もしてしまいますけれど。
　彼がふいに、いつもよりどこか、ほんの少しだけ。柔らかい表情を浮かべたように見えました。
「まぁ、これからもこの調子で頼む」
「……いいけど。でもさ、朝はもーちょっと、ちゃんと起きてよね？」
「ああ、そうだな。なるべくそーする」
「なるべくじゃなくて、絶対するの！　ほんとアンタって、俺がいないとゼンゼンダメなんだからさー」
　ほのぼのとした、いつもの。それでいてほんの少しだけ、新鮮な朝。こんな朝を、彼らはきっとこの先、何度も迎えることになるのでしょう。
　何の変哲もない、素敵で普通な、この朝を。