音色『　』色｜リアクション

音色『　』色

　シーサイドタウン駅から徒歩数分離れただけだというのに、桜川の畔には人影はなく閑散としている。そんな穴場を見つけた如月蘇芳は、空に分厚い黒雲が立ち込めているのにも関わらず吸い寄せられるように川へと足を向けた。
　鞄を古びたベンチに置いて空を見やると、おもむろに記憶している科白を諳んじた。

『何故僕を助けた？　あのまま放っておいてくれれば僕は雪の棺の中で春まで眠り、静かに朽ちていったというのに、何故』

　熱のこもった声を全身を使って絞り出して代わりに冷え切った空気を吸い込むと、フッと柔らかい感触に唇を塞がれる。なんだろうと蘇芳は人差し指でそっと唇を拭う。指先に張り付いたのは、大輪の如き華やかな雪の結晶であった。
　声に反応していると知った蘇芳は、柘榴の瞳を細めて微笑む。
　現在練習している演目は人里離れた山奥で暮らす女が、ある雪の日に瀕死の青年を拾ったところから始まる悲恋を描いた物語『風花』。全編通して雪が描写され、それが登場人物の心情と上手く絡み合う緻密な作品だ。役者はもちろん舞台監督の腕が問われる演目でもある。
　これならば本番さながらの稽古ができる。蘇芳はこれ幸いと声に感情を乗せ、川辺の隅に『風花』の世界を作り上げていった。
　邪険に扱われながらも甲斐甲斐しい女。少しずつ頑なな心を綻ばせていく男。鬼として里から追いやられた女の一族の過去。男の素性。物語が進むにつれ蘇芳の演技と物語を飾る雪は融合する。控えめで謙虚な深雪に包まれながら、男と女は心を交わした。そして訪れる別れの時。

『君を残して行く愚かな僕を許して欲しい』

　端正な顔に苦悶の色が浮かぶ。吐き出された言い訳は、通り風に散らされた。

「……うーん、なんだろうな……このシーンだけはなかなか掴めないな」

（一人で練習しているから？）

　つと思い浮かんだ理由に、蘇芳は苦い笑みを浮かべる。少し言い訳がましいかもしれないなどと自嘲したところで、土手の上に佇む女――千歳飴楓子と目があった。
　腰まで伸びた艶やかな髪は億劫そうに風と戯れている。光の具合によって青とも黒とも見える髪は――しばらくしてようやく本当に青で黒なのだと理解した。
　しかし彼女は蘇芳から視線を外すと、そのまま立ち去ろうとする。蘇芳は言いようのない焦燥感に駆られ、彼女を呼び止めた。

「はじめまして。突然だけど君、ちょっと付き合ってくれないかな」

　彼女が緩慢な動きで振り返るのを見て蘇芳はしまったと思うが、声を掛けてしまったからには仕方がない。余裕のある笑みを浮かべ、練習相手をしてほしいという旨を彼女に伝える。

「ふむ。演劇の練習か。楓子で良ければ構わないぞ。台本を読ませてくれ」

　彼女は不思議そうに目を細めながらも、防寒着に埋もれるようにこっくりと頷き、蘇芳の手からひょいと台本を奪い取る。台本を読み込む彼女の横顔を覗き込む。気だるそうな表情。しっかりと着込んだ防寒着に、寒さのために丸めた背中。そのせいで気が付かなかったが、スラリと背が高くなかなか整った顔立ちをしている。

「一通り覚えたぞ」

　そう言うや否や楓子の眦は朱色に染まり、碧眼は涙が浮かび万華鏡のように輝いた。

『ああ、貴方は行ってしまうのですね。私をこの寒い寒い空の下に一人残して』

　刹那、蘇芳は息を呑む。

「――こんな感じか？　ってんん？　なんだこの雪の結晶は」

　雪の出現に驚いて、楓子はすぐさま仮面を解いた。その変化にまた蘇芳は驚嘆する。

「うん、大丈夫そうだね。じゃあお相手、よろしくね」

　間違いなく何かを掴める。そんな確信が蘇芳の紅瞳に宿る。辺りを舞う雪の結晶は風に煽られ、光を弾きながら水面を転がっていった。