窓側。真ん中あたり。
　窓側に座っているエレノア・エインズワースにとっては退屈な授業内容だった。情報技術関連の知識を独学で習得済みの彼女にとっては、この程度の因数分解など反射神経でクリアできる。桐島先生もそのことを知ってか知らずか、エレノアの眠そうな態度には注意をしなかった。
　序盤は聞いていたエレノアだが、中盤あたりから頬杖をついた姿勢のままで優雅に昼寝をしていた。雨の音が耳に心地いい。
「(1)(2)は先ほど説明した通りだ。では、(3)(4)は君たちにやってもらうとしよう」
　エレノアの隣の席、伊藤 佳奈がぎくりと体をこわばらせる。どうか当たりませんように！　佳奈は理系科目が大の苦手だった・。
「(3)を伊藤、(4)を弓弦原」
　……当たってしまった。
　佳奈はがっくりと肩を落とした。(4)が当たった弓弦原 譲は名前を呼ばれたら、すぐに黒板に答えを書きに行ってしまったのに。
「はー。全然わかんないよー。お母さんのおっぱいの話しでもして気を逸らせないかな」
　気合で解けないだろうか、と問題を見返してみるも撃沈。数字の羅列にどんな意味があるのかわからない。頼りの白咲 琴音は欠席だ。でっかいピンチです。
「鈍色に沈む雨景色に見とれていたら、いつの間にやら眠ってしまいましたか……」
　佳奈の独り言で、エレノアがゆっくりと目を覚ました。
「ずいぶん、残念な作戦ですね。佳奈さん」
「う、だってー。因数分解なんて普段つかわないのに～」
　ぴくり、とエレノアの眉が動く。
「そうでもないですよ。情報セキュリティにおける暗号理論の分野で有用に使われています」
「へ？」
　雰囲気の変わったエレノアに佳奈が素っ頓狂な声を出す。授業中のエレノアはつかみどころのない、やる気のなさそうな少女だった。
「73×137が10001になることは直ぐに求められます。でも10001が73×137であることはそうそう分かりません……この素因数分解の一方向性が暗号数学の基盤となっているわけです。よろしいですか？」
　それが、今は立て板に水の勢いで喋っている。好きなことになると喋るタイプなのだろうか。
「は、はー。なるほどー」
　佳奈はやや気おされてしまった。思わず調子を合わせてしまう。
「って、そろそろ何か答えないと！　桐島先生めっちゃこっち見てるしっ」
「……(X + 3)(X + 4)です」
「ありがと、エレノアちゃんっ」
　エレノアに答えを教えてもらうと、佳奈は慌てながら黒板に答えを書きに行った。
「練習するだけですよこんなものは。納得している必要はないんです。そういうものだと受け入れてしまうことです」
　壇上に上がろうとしてつまづいた佳奈を見ながら、エレノアはわずかに微笑んだ。エレノアにとっては楽勝な小テストだが……本気を出してみようか。全問正解は当然。狙うのはクラス中最速の答案提出である。
「エレノアちゃん、さっきは助かったよ～！　これ、お礼っ」
　佳奈は、こっそりと秘蔵のお菓子を差し出した。限定パッキー・グレートイチゴ味である。
「いただきますね。ふふ」
　ちょっとした情趣の報酬には、甘いコーティングが施されていた。
　たまには、クラスメイトを助けるのもいいでしょう。



　前の方の席。廊下側。
　秋宮 叶は涼しい顔を装いながら授業を聞いていたが、内心は穏やかではなかった。
　うおおおお、なんじゃこりゃああ。
　コツさえつかめば補習は避けられそうだけど……因数分解は展開の逆、展開の逆！
　実家の粉もの屋の手伝いがある叶。補習に引っかかるわけにはいかなかった。
　同じく、前の方の席に座る勅使河原 悠も小テストという存在に頭を悩ませているひとりだ。先日、桐島先生と八神 修に勉強を教えてもらったばかりなので悪い点数を取るわけにはいかない。今回は初めて習うところだけど……どうにかして、結果を残したいところだった。
「勅使河原、困っているのか？」
　悠がおろおろとしているのを感じ取った上條 暦が声をかける。真面目な性格の暦はあらかじめ簡単に予習を済ませていた。
「上條さん……。はい……数学、苦手だから、少し、心配で……」
「そうか。私で良ければ力になるぞ。勅使河原も文系よりなのか？　文系の私からすると、因数分解は理屈より感覚で覚えていく方がいいかもしれない」
「あっ。上條さん、よければ俺にも教えて！　補習うけるの嫌なんだよーっ」
「秋宮、構わないが声がでかい」
　こうして、暦は悠と叶を教えることになった。机を軽く寄せてプリントの内容を教えていく。悠は基本をよく分かっていた。前回、先生たちに教えてもらった成果だろう。緊張しなければ合格点にも十分届きそうだ。叶は……だいぶ残念な感じだ。今から頑張ろう。
「秋宮。因数分解とはカッコ内の展開の式の逆。つまり展開済みの式をカッコの式に当てはめればいいんだ」
「うー、キョーツーインスウを探して、それっぽい数字を探せばいいのか？」
「それでもいいだろう。たすき掛けとか、やりかたはいろいろあるけれど。補習を避けねばならないのなら、自分に合った方法を使うのも手だとは思うぞ」
　他人にはおおらかな暦。もっとも、彼女は変に頑固なところがあるので自分の小テストは教科書に乗っ取ったやり方で100点を取らねば気が済まないであろう。
「秋宮君……用事が、ある、の？」
　悠がノートをまとめながら尋ねる。ノートの綺麗な字は、彼女の几帳面な性格をよく表していた。分からない部分は簡単に線を引いたり、丸で囲んだりしている。普段はこの部分を授業後に先生に聞きに行くようだ。その場で手をあげて質問をすることは目立つのが苦手な彼女には難易度が高い。
　余談だが授業中のため悠は眼鏡をかけている。眼鏡をかけると、儚げな容貌に知的さが加わっていた。
「家の手伝いあるからな。補習になったら逃げるしかない」
「お手伝い……」
「言った事あったっけ。うち、粉物屋やってるんだ。たこ焼き屋兼鯛焼き屋。小麦粉の袋とか重いからさー」
「偉い、ね……」
「んなことない。俺、上條や勅使河原みたいに勉強できないしな。この学校に受かったのも奇跡ーって親に言われたし」
　叶が白い歯を見せてニシシと笑う。
「秋宮は計算自体は慣れているんだろう？　今回は基礎内容だから、今がんばれば気合で何とかできると思うぞ」
「よしっ。上條が言うなら間違いないな！　やれる！　やれるんだ俺は！　むしろやれ！　やらないと補修参加的な意味で終わるんだうおおおおお！」
「秋宮、声がでかい」
「ナイスツッコミ！」
　叶は暦に丸めた教科書でポーンと頭をはたかれたが、なぜか嬉しそうにサムズアップしながらウィンクした。
　叶が早めに人を頼ったのは正解だったろう。応用はからっきしダメだが、基礎だけならどうにかなりそうだ。点数は50点ほどだろうか。拝み倒せば補習は免れそうだ。
「そうだ。勅使河原と上條、今度うちの店あそびにこいよ。ふたりとも旧市街に住んでたよな。見かけたことあるし」
「私、は……タバコ屋さんの、二階に、住んでる。お姉ちゃんと一緒……」
「へー、勅使河原も姉ちゃんいるのか。一緒だな。うちは双子の姉ちゃんだけど」
「言われてみると、ふたりとも姉がいそうな雰囲気があるな」
「そう、かな……」
「うむ。下の子、という感じがした」
　そういう風に見えていたのか……。と、悠はなんとなく照れてしまう。叶は時々言われるなぁ。とおおらかに構えていた。
「郊外だが、私の家も旧市街だな。勅使河原、予定が合えば今度お邪魔してみるか？」
「え……。いい、の……？」
「今度と言わず、今日でもいいぜ。お客はいつでも歓迎だからさ！」
「う、ん……」
　悠は両親ともに死別しているが、父方はなかなかの名家だと聞く。買い食いの経験は少ないのではないだろうか。
　良い点取れたら、八神君も、誘って、みようかな……。
　テスト前の最後の見直しをしながら、わずかに微笑んだ。