「春彦、１４日は何か予定があるの？」
「１４日は臨時バイトだよっ！　ホテルの時給すっげーよかったし」
　バレンタインデーの予定を艶めいた感情が何一つない響きで一条 紗矢香に聞かれ、楢木 春彦は他のバイトと比べてもホテルの時給がどれほど良かったかを幼馴染であり完全に家族と同一状態の紗矢香へと語った。
　語るうちに、紗矢香の目に同情と言うか憐憫と言うか、とにかく生温かい物が浮かんでいるのを感じて春彦は一度口を閉じる。
「な、なんだよ……」
「……なんでもないわ」
　藪蛇になりそうで深くは追求せずに部活があるからまたな、と春彦はそのまま紗矢香と別れた。紗矢香はといえば、その後姿を見つめながら溜息混じりに呟く。
「バイトって時点で何となく察したけれど……春彦、９月に寝子高に転校して来たのだしそろそろいてもおかしくないわね、と思ってたのに……相変わらず女っ気ないのね……」
　自分はどうなのだと問われれば、それは別問題だと答えるであろう紗矢香は思案する。春彦に彼女がいてもいなくてもチョコレートは渡そうと思っていたし、自分も１４日に予定がある訳でもない。ならばいっそ同じ所でバイトして帰りに渡せば一石二鳥なのではないか、と。そして彼女はそれを実行する――。
　バレンタインデー当日、学校が終わってからその足で春彦はステッラ・デッラ・コリーナの従業員入り口に向かっていた。バイト用の従業員証を提示して中へ入り、更衣室で用意されていた制服へと着替える。



「制服カッチリしてて崩せねぇの、ちっと窮屈だな」
　そう言いながらも、黒と白のハーリキンチェックが襟元や袖口に施され、赤い留めボタンのスーツを着てきつくないか、動き難くないかのチェックをする春彦の姿は中々のもの。きちんとした高級ホテルだからこそ、バイトと言えど仕立ての良いスーツなのだと思うと、迂闊な事は出来ないなと春彦の心も引き締まる。更衣室を出て軽い注意事項と説明を受けると、今回のバイト先であるスイーツビュッフェ、『アリスのお茶会』の会場へと向かった。
「言葉遣いや動きも注意しねぇといけねぇのか……」
　注意された事を何気な呟くと、
「それは当たり前でしょう、高級ホテルなんだから」
　と、後ろから聞きなれた声が返事をした。
「そうだよな～、接客は慣れてるけどいつもと勝手が違いすぎて緊張す……って、えぇ！？」
「やあね、大きな声を出すんじゃないわよ。みっともないでしょう？」
　余りにも馴染み過ぎた声に普通に返事をしてしまった、と思いながら振り返れば黒と赤のハーリキンチェックが施されたメイド服に、トランプ模様の入ったエプロンを着けた紗矢香が立っていた。
「なんでサヤも居るんだよ！？」
「ここのバイトに興味があったからよ」
「で、でも俺聞いてねーよ！？」
「言ってないもの。はい、無駄話はここまでよ。仕事仕事」
　そう言われてしまうと、春彦はもう紗矢香に言い返すことはできなかった。長年の力関係というのは恐ろしいものである。仕方ない、と思考を切り替えて春彦は紗矢香の後を追う様にスイーツビュッフェ会場へと入っていった。


◆　◆　◆　◆　◆


「お待たせナノ！」
「大丈夫よー、それじゃ行きましょっか！」
　走ってきた御薗井 Ｅ セレッソを笑顔で迎えて、早坂 恩がそっとその手を繋いで歩き出す。手を繋ぎながら、セレッソは普段制服以外では履かないスカートがひらりと翻るのを少しだけ気にして歩く。バレンタインデーだから、特別な日だから、今日くらいはスカートを履いてもきっと誰も気にしないはず。そう思っていたけれど横を歩く恩に、
「今日のスカート、とってもよく似合ってるわ」
　と、言われてしまえばほんの少し照れくさくて、でも気が付いてくれたことが嬉しくて、セレッソは小さな声でアリガト、と呟いた。
　２人が向かう先はシーサイドタウン駅近くにある貸衣装屋。今年のバレンタインは童話モチーフとコラボしているイベントが多いお陰か、安くレンタルできるとあって中々の盛況っぷりだ。
「アリスのお茶会だものね、帽子屋の衣装とかあるかしら？　セレッソちゃんも色々見てくるといいわ」
「ウン！　イイの見つけてくるヨ！」
　本当は選んであげたいところだけれど、楽しみが減ってしまうしと手を振ると恩は自分の衣装を選ぶ。色々悩みながらも、恩は落ち着いたモスグリーン色をしたフロックコート仕立ての帽子屋の衣装を借り、レンタルの手続きをすると更衣室で着替える。着て来た服は貸衣装屋に預け、セレッソを待った。程なくしてパニエで膨らませた水色のワンピースに白いエプロン、白と黒のストライプが可愛いニーハイソックスという出で立ちのセレッソがやって来た。
「セレッソちゃんはアリスなのね、可愛いわ！」
「恩センパイのマッドハッターもカッコイイヨ、リボンがお洒落だワ！」
　セレッソが言うとおり、恩の襟を締める大き目のリボンは黒と白のハーリキン・チェックで首元を華やかに見せて目を惹く。
「ふふ、ありがとう。さぁアリス、お茶会に行きましょうか」
「ウン！　楽しみだネ！」
　店を出た２人は『アリスのお茶会』に参加するべく、ステッラ・デッラ・コリーナへと向かった。星ヶ丘の高級ホテルのスイーツビュッフェということもあり、混んではいたけれど待つ程ではなく中へと通される。
「すごいネ、中も可愛いヨ！」
「ほんとね、内装もアリスっぽいのね」
　案内された席に座り、ホテルスタッフから簡単なビュッフェの説明を受けると２人でビュッフェのスイーツが並ぶ机へと移動した。赤いテーブルクロスの上にはトランプを模したチョコレートや『Eat Me』と書かれたビスケットにクッキー、『Drink Me』と書かれた札がぶら下がった飲み物、チョコレートと苺のカップケーキにベリーベリータルト……食べ切れないほどの美味しそうなスイーツが所狭しと置かれている。
「これは迷っちゃうわね」
「迷うネ！　でもワタシ、チョコラータ大好きだから……あれもこれも食べて良いなんて素敵だワ！！」
　なるべくひとつずつ、被らないようにお皿に盛って席へと戻る。いただきますと言い合って、さっそくチョコレートを口へと運んだ。その美味しさはさすがと言うべきか、ちょっと言葉にならない程。
「ン～～～！　とっても美味しいチョコラータナノ！」
「あら、このケーキも美味しい……セレッソちゃんも１口食べる？」
「えっあ、は、はいナノ！」
　にこっと微笑まれてフォークを差し出されてしまったら、向かい合っている事やそれはもしかしたら間接キスという奴なのでは？　という思いは吹き飛んで、セレッソは素直に口を開く。
「お、美味しいノ……！」
「でしょう？　さすがステッラ・デッラ・コリーナのパティシエよね」
　んー、美味しい！　と恩がケーキを自分の口に運ぶのをセレッソは思わずまじまじと見てしまう。
「どうかした？　セレッソちゃん」
「ウ、ウウン！　恩センパイ！　ワタシ恩センパイの分も色々取ってくるワ！」
　普段は優しくてお姉さんみたいだと思うのに、時々自分をドキドキさせるような事を言ってみたり、したりするのはどうしてなんだろうと頬をほんの少し赤くしながらセレッソはスイーツをお皿に載せる。
　ああ、でもお姉さんみたいだけれど、恩は男の人で……。イタリアではサン・ヴァレンティーノには大好きな１人にしかプレゼントを渡さないのがマナーで、それなら恩に渡したいと思ったのは自分だとセレッソは唐突に気が付いた。だから、トングで取ろうとしたブラウニーはお皿の上には載せなかった。だって、恩の為に作ったブラウニーと比べられるのは嫌だったから。……どうしてかは、まだよくわからなかったけれど。
「ありがとう、セレッソちゃん。……どうしたの？」
「ウウン、いっぱい食べようネ！　……ブラウニー以外をヨ！」
「ブラウニー？　無かったの？」
「そうヨ！　ブラウニーは無いノ！　無いのヨ」
　変なセレッソちゃんね、と恩が笑ってくれたから、セレッソも笑う。今は甘くてほんの少しほろ苦いチョコラータを一緒に食べられるだけで良かった。