あのとき、鬼河内 萌は確信した。己の強運を。
　引きも引いたり！
　なんだかもう『勝訴』と書いた半紙を手に、飛び出していって町中走り回りたい気分だった。決して大袈裟ではなく。
　当たったのだ！
　星ヶ丘駅前の抽選会で！
　特賞が！　『クリスマス・ディナークルーズ二名様招待券』が！
　恋する乙女たる萌は、うち一枚を厳封の上、書留便で野菜原 ユウに送った。「フランス料理を食べまくろう☆」というメッセージとともに。
　やがて月日は流れ、彼女はクリスマス・イブを迎えた。

　今日このとき、鬼河内 萌は確信した。己のヒロイン性を。……悲劇のヒロインとして。
　待ちぼうけ、である。
　待ち人来たらず。待てど暮らせどユウの姿は見えない。
　勝訴は取り下げて『不当判決』と書いた半紙を手にかけずり回りたくなってきた。
「ああー！」
　萌は天に向かって叫んだ。実際にやると警備員につまみ出されるだろうから、かぼそい小声の叫びであったが。
　残念！　クリスマスの奇跡は起きなかったのである！
「シーサイドタウンも旧市街も避けて、あえてダメ元で星ヶ丘に来たのにー！」
　萌は運命に向かって吠えたてた（繰り返すが小声の叫びである）。
「ユウくんと話す内容もあれこれ楽しく想像してきたのにー！」
　非情、運命は非情。事情ではなく非情。大人の非情だ。
　萌は夢見ていた。甘酸っぱいトラブルを。たとえば、うっかりウィスキーボンボン風のデザートを食べてしまい酔っ払って、押し倒すようにしてユウに寄り添って眠ってしまうという既成事実とか！（『とか』と言いながら随分具体的だが）
　とはいえ現実を恨んでいても仕方がない。
　こうなったら血の涙を流し、食べようではないか。ビッフェの高級食材を。
　今、萌の食べ放題伝説がはじまろうとしている……！

　クリスマス・ディナークルーズがあるなんて、巫部 紫苑はまったく知らなかった。
　無欲は力である。まあティッシュでも当たればいいやとやった抽選で紫苑は、夢にも思わぬ特賞を引き当てたのだから。そのとき、突然「おめでとうございます！」と職員に言われ大きな鐘がガランガランと鳴っても、紫苑は意味がわからずぼんやりしていた。
　こうして手に入れたプラチナチケットだというのに、紫苑はこれを、遊覧船の乗船券軽度にしか考えていなかった。特に乗り気でもなく、磁石で冷蔵庫に貼り付けたまま当日まで忘れていたくらいだ。
　ところが幸い、今日たまたま冷蔵庫から磁石が転がり落ちて、不可抗力として彼女の足元にチケットが落ちたのである。もしかしたらこれは船のほうが「もったいないから来なさい！」と念を送ったためなのだろうか。
　そうして船にたどり着いた紫苑は時間にして約十秒、ぽかんと口を開けてたたずむことになった。
「寝子島にこんな凄い船なんてあったのですね……全然知りませんでした……」
　遊覧船どころか、超豪華客船だっただから。
　乗船しても驚きは続いた。
　セレブ仕様、そんな単純な表現では収まらないほどに、船は絢爛たる内装だったのである。決して過度にぎらぎらしてはいないが、あきらかに高級品の椅子やテーブル、調度品がならんでいる。中でも目立つのは船内ホールに飾られたシャンデリアだろう。緻密にして精巧な装飾がなされており、その偉容たるや思わずひれ伏しそうになる。
　物珍しそうにうろうろ、中を見回しながら進んで、これはすごいことだと紫苑は遅まきながら理解した。
　船そのものがすごいだけではない。
　乗客も皆、あきらかに華やかで、上流階級の雰囲気をたたえているのだ。いわゆる著名人も少なくないが、その姿を見かけたからといって大騒ぎする者はいない。つまり、おなじみの光景だということだ。ついうっかり普段着で来なくて本当によかった。きっと今なら、紫苑もその一員のように見えることだろう。
　一流が集まるこの場所なのだから……紫苑は思わず笑みを浮かべずにはおれない。
　彼らを満足させるため、きっと素晴らしい食事が提供されることだろう。
「……うふふ、ディナーが楽しみです♪」
　ぼんやりしていたら豪華なクリスマスが降ってきた。今年一年の締めくくりとして、これ以上のことはあるまい。

　クリスマス、という言葉にあなたはなにを思い浮かべるだろうか？
　志波 拓郎の脳裏をよぎったものは、ひとつ。
　――ロマンチック……。
　おお、なんと悩ましい。

　弱冠16歳の拓郎にとって、それは理解できるようなできないような、どうにもふわっとした概念であった。けれど16歳のクリスマス・イブは一回限りだ。一緒に過ごしたい大切な人はいる。だったらなんとしてでも、『ロマンチック』を実現したいと思うのだ。どうやって実現したらいいのかは、どうしてもわからないのだけど。
　ところが、12月に入るやクリスマスのことばかり考えそわそわしていた拓郎に解決を与えてくれたのは、まさしくその大切な人だったのである。
「ほら見て！　これ！」
　高梨 彩葉が示してくれたのは、クリスマス・ディナークルーズの招待券だった。
「これ、高くなかった……？」
「桜栄理事長がくれたんだよ」
　ひたすら上機嫌なタイミングで話しかけたのが良かったらしい。一説ではプラチナチケットと呼ばれるこの券を、理事長は彩葉にポンと譲ってくれたそうである。
「さすが理事長……太っ腹……」
　これでロマンチック問題は解決、と簡単に済ませられたわけではなかった。それから当日まで、またまた拓郎は頭を悩ませることになったのだ。
　――ディナークルーズ……まさか、自分に縁が……あるなんて……。
　ナイト・エンプレス号といえば、いわゆるセレブの世界というイメージが彼にはあった。その名前だけでもう、彼はプレッシャーを感じてしまう。果たして、そんな場所で萎縮せず過ごすことができるだろうか……？
　かくして迎えたイブ当日、拓郎の悩みは、一瞬にしてどこか遠いところへ飛んでいってしまった。
　それは、船着き場で彩葉の晴れ姿を目にしたから。

「似合う、かな？」
　ややはにかんだ微笑とともに、それでも淑女然とした物腰で拓郎の前に現れた彩葉は、まるで夢の世界から抜け出てきたかのように可憐で、美しくて、そして愛らしい。
　薔薇をモチーフとしたドレス、咲き誇る大小様々な薔薇が胸元を飾り、ラベンダー色の髪飾りも、彩葉を花の妖精のように見せていた。アップにした髪型のおかげで形のいい目がくっきりと見え、透き通る瞳に吸い込まれそうになる。薄化粧してきているせいか、普段よりもぐっと色っぽい。
　ドレスは貸衣装店で調達したものだという。たまたま気に入ったものを選んだと彼女は言うのだが、拓郎にはまるでオーダーメイド品のように見えた。
　スーツ姿の拓郎は、誇張でもなんでもなく硬直していた。魂のほとんどを、彩葉に持って行かれてしまったというのが正直なところ。
「…………拓郎？」
　何秒も黙ったままの彼に、彩葉は怪訝な顔をしたが、ここでようやく拓郎は我に返ったのである。
「うん、似合ってる……綺麗……！」
　弾かれたように拓郎は声を上げた。もっと巧い表現が出てこないのがもどかしい。でも本当に、本当に本当に、彼は彼女に魅了されてしまったのだ。拓郎は両手を使って、この気持ちをなんとか身振り手振りで表現しようとする。その様子が可笑しかったのか彩葉はくすくすと笑った。
「ありがとう……拓郎も格好いいよ」
　実は彩葉のほうも慣れぬ衣装に緊張していたのである。彼のおかげでその気持ちをいくらかほぐすことができ、ホッと安堵しているのだった。
　これがロマンチック……か――拓郎は突然気がついた。
　そう、ロマンティックはもう、始まっていたのだ。しかもそれはずっと、今夜収まることがなさそうだ。
　ディナークルーズへの招待がなければ、こんな体験ができなかったかと思うと感激もひとしおである。
　――サンタさん理事長ありがとう……！
　心の中で拓郎は手を合わせた。