そのぬくもりをもう一度｜リアクション

そのぬくもりをもう一度

ケース２：とあるヴァイオリニストとピアニストの場合

　その日、深林真瞭は、聞こえてきたラジオの音声に眼を細めた。場所は星ヶ丘のお洒落なカフェ。気晴らしになれば、と思いやってきたのだがラジオからとある名前を聞き、静かに「元気そうね」と呟いた。

　深林恭一郎。国際的な名声を博すピアニストであり、真瞭の父である。生き別れというには大げさすぎるが、深林親子は物理的な意味でのすれ違いが多い。というのも恭一郎は演奏活動の他、後進の育成にも力を入れているので、日頃世界中を飛び回っているのだ。
（最後に父さんと会ったのは、２年前のニューヨークだったかしら？　しかも、国際空港でちょっと立ち話した程度。確か、父さんはローマへ行くと言っていたっけ）
　ラジオから聞こえてくる父の演奏に耳を傾けながら、その時の事を思い出す。真瞭自身はＮＹのオーケストラでの客演のために訪れており、迎えを待っている所だっただろうか。父は穏やかに笑い、真瞭を「楽しんでおいで」と優しく送り出してくれた。その笑顔にどれだけ勇気付けられただろうか？

（そういえば、最後に電話したのはいつだったかしら）
　ふと、そんな事を考え……思い出せない事に真瞭は気付いた。仕方が無い事だ。なんせ、２人とも多忙なのだから。
　父親が元気なのはＳＮＳや音楽関連のニュースで確認できる。恐らく、彼女が元気でいる事もそれらを通じて父親に伝わっているだろう。
　だが、電話を最後にしたのは思い出せないぐらい前のことだったかもしれない。メールは去年の１２月にしたっきりで……。
　色々と父親の事を思い出すのは、何故だろうか。彼女自身が人生の岐路に立たされているからなのだろうか。
（今の楽団に残るか、移籍か）
　そう、深いため息を吐く真瞭の肩を、ぽん、と優しく叩く者がいた。振り返ると、穏やかな眼差しの紳士が笑いかけている。
「久しぶりだね、真瞭」
　その声に眼を見開き、次の瞬間には息を飲んだ。
「父さん。……何でここにいるの？」
　多忙である筈の父親、恭一郎がそこにいたのだから。

「纏まった休日が取れてね。それで休養に来たんだ」
　向かいの席に座った恭一郎は、カプチーノを飲みながらのんびりとそう言った。そして、穏やかでありながら確かな声色で、そっと問いかける。
「真瞭は、何か悩んでいるんじゃないのかな？」
「解るの？」
「父親だからね。それに、色々話は聞くよ」
　恭一郎は不思議そうな顔をする真瞭に口角を上げて眼を細める。優しい声色は普段道理だが、やはり音楽に生きる者の先輩としての顔がそこにはあった。
　ふぅ、ともう一口カプチーノを飲み、恭一郎はゆっくりと真瞭の目を見、にこり、と微笑んだ。
「本当にしたい事は何か。それさえ解ればおのずと答えは見えてくるよ」
「そういうものなの？」
　意外だ、とでも言うような彼女の声色と表情に恭一郎は眼を細めて頷く。ふわり、とコーヒーや甘いクッキーなどの香りの中、恭一郎はそっと歌うように言葉を紡ぐ。
「真瞭の音楽は、日々良くなっていくから、何処の楽団も君が欲しくなるんだろうね。あぁ、これは同じ音楽家としての視点だよ？」
　そこまで言った恭一郎は、「でもね」と首を傾ける。
「これからの道を決めるのは、真瞭自身だ。どこでどんなふうに、なにをしたいのか、とね」
「どこで、どんなふうに、なにをしたいのか……」
　父親の言葉を小さく呟き、真瞭は静かに瞳を閉ざす。真っ先に思い浮かんだのは、只管ヴァイオリンを奏で、音楽と向き合いたい、という思い。
　僅かに、真瞭が眼を見開く。恭一郎は楽しげにその様子を見ていた。持っていたカップを静かに置くと、彼は１つ頷く。
「今の楽団に残るのも、別の場所へ向かうのも自由だよ。無責任な言い方かもしれないけれど、その答えはもう、胸の中にあるかもしれないね」
「うん」
　父親の言葉に、真瞭は静かに頷いた。

（とあるヴァイオリニストの場合　終）

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