冬の日。新たな始まり｜リアクション

冬の日。新たな始まり

【昼下がり・社会人（１）】

　深林真瞭は、寝子島に向かう電車に揺られていた。

　某有名交響楽団で第一ヴァイオリンとコンサートマスターを務める真瞭。年末年始のコンサートラッシュが全て終了した彼女は、ようやく束の間ではあるが休みを得る事ができた。
　東京での年末のコンサートには親友の深倉理紗子が来てくれた。そのまま正月三が日は東京の真瞭の家で２人過ごし、寝子島病院の勤務医である理紗子は正月明けすぐに寝子島に戻っていった。

　東京に拠点をおく真瞭は、なかなか寝子島には戻れない。
　去年の秋は一時的に親友の病気療養と同じタイミングで寝子島に亡命（？）した。そしてようやくコンサートラッシュが終わった真瞭は、数日間ではあるが星ヶ丘に借りている自分のマンションで休養を予定しているのだ。

　ガタンガタンと揺れる電車。海に粉雪が吸い込まれていく。それをぼんやりと真瞭は眺めていた。

　実は、真瞭の楽団は今非常にゴタゴタしていた。いや、もうゴタゴタなんてとうに通り過ぎ、楽団の人事を巡る内紛は取り返しのつかないレベルで悪化していた。
　バイオリニストとして国際的な評価もある真瞭。こんな楽団の状態を見越して、国内外から複数の移籍話が舞い込んでいる。―――恐らく、そう遠くない時期に大きな決断を下さなければならないであろう事は、真瞭は覚悟していた。
　それでも、と真瞭は海を見ながら溜息をついた。
　考えが堂々めぐりしている。……自分ってこんなに優柔不断だっけ？　と真瞭は驚きすら感じていた。こんな真瞭を理紗子が見たら、目を丸くするのではないか。

　そんな事を思っているうちに、いつの間にか真瞭を乗せた電車はシーサイドタウン駅に到着する。大事な自分のバイオリンを携え、真瞭は電車を降りた。
　午前で終わった学生達の丁度帰宅時間なのだろう。駅前は平日昼間にもかかわらず、人出があった。
　笑顔で行き交う学生達。携帯片手に忙しそうなビジネスマン。
　駅前を通り過ぎる人達は、皆生き生きして見える。

　そんな人混みを見ている内、真瞭は何だかどうでもよくなってきた。
　私は、弾くのが好きなだけだ。音楽が、好きなだけだ。
　なのにどうして全然関係ない事で悩まなければいけないのか。
　どうして好きに弾かせてくれないのか。

　怒りに似た感情がふつふつと真瞭に湧き上がった。
　駅前広場に立った真瞭は、トン、と地面に荷物を置く。そしておもむろにケースを開けバイオリンを取り出すと、思いのままに即興演奏を始めた。

　弾き始めたのはサラサーテのサパテアードだ。元々が華やかな曲だが、それを真瞭は自在にアレンジしていく。時にコミカルに、時に勇壮に。１つの曲が様々に表情を変え、うねり、魂の叫びとなって寝子島の空に響き渡る。
　彼女の周りにはあっという間に人だかりが出来た。その圧倒的な演奏に皆が釘付けになる中、誰かクラシックに詳しい人がいたのだろうか、「あれ、あの人有名だよね？　確かＣＤ出してた気が……」という声が聞こえ始めた。

　それでも真瞭は演奏を続ける。
（……私は、音を奏でる以外の事はできないし、する気にもならないわ。音楽があり、私がある。ゴタゴタなんてクソくらえよ！）
　そこはもう彼女１人のコンサート会場だった。唯一の自由が許された場所で、幾重にもになった人垣に囲まれ、真瞭は一心不乱に弾き続ける。
　ザッと最後の音を鳴らして弓を高く上げる。はあ……と真瞭が息をついた時、ワッと割れんばかりの拍手が巻き起こった。

　そこで初めて真瞭は自分がたくさんの人に囲まれている事を知る。
　大きな拍手に包まれて、真瞭はその瞳を輝かせながら、心からのお辞儀をするのだった。