7.

　そこにいたのは、西川 夕莉であり、西川 夕莉ではなかった。
　今の彼女は、寝子高演劇部の部長でもなければ、演劇に一途に心を燃やす少女でもなかった。
　
　そこにいたのは、女のように美しい一人の青年剣士。
　浅黄の羽織に草履、腰には刀。染め抜かれた『誠』の文字。
　壬生狼の異名で、京の街を駆け抜けた、彼は『新撰組』の一人であった。
　足が速く、まっすぐで、そして、若い。
　哀しいほどのまっすぐさは、夕莉が芝居に挑む思いに重なるところがあった。
　――そう思ったとき、夕莉はすでになく、虚構の少年剣士に血肉が通った。
　コメディエアーのなせる業か、彼女の役者としてのセンスがなせる業か。

「新撰組である！　御用改めであるぞ！」凛とした声が、回廊に響き渡る。

　闇からぬっと現れるのは、眼光を炯々と光らせる元侍の浪人……ではなく、天之川 麗仁。
　居合道有段者の彼が演じるのは、分けあって浪々の身となった、天下にその名も轟く剣豪。
　己が武威を、再び世に轟かせるべく、士官の道筋を辿りいまは流浪の身。
　という設定である。
　剣の腕もさることながら、自立を夢み、己の力を生かす道を模索しつつ、どこか風に吹かれているような自由な心も、麗仁に似たところがあった。
「おのれ盗人……」右手に刀をひっさげ、左手の台本を読む。
「ここで手柄を立てれば、士官の道も、開かれるやも知れぬ……」
　ふふふ、と酷薄に笑う。
　どうやら、そういう設定らしかった。

「うりゅ～！」
　元気な声とともに飛び出すのは、あでやかな衣装に身を纏った雨龍 雛。
　ふんわりアレンジのプードルヘアにお団子二つの、いつものヘアスタイルを、長髪のカツラで隠し、お姫様スタイルで登場である。
　有無を言わさず突撃。
　反射的に飛んでくる花を「はっ！」気合とともに宙返りで回避。
　そのまま一回転すると、長い髪はクルリと結い上げられ、豪奢な羽織は漆黒の忍者装束に変じる。
　戦国の世のならいで、忍者として修業を受け、姫としての顔と、忍者としての顔を生きなければならない、悲しい運命の少女。
　ちょっと無理があるような気がしたが、そんな設定の姫忍者らしかった。
　そういったキャラクターに、軽々とリアリティを与えられる雛。
　得難い資質の、女優と言ってよかった。

（侍と、姫様と、忍者と、新撰組と……）
　演じる自分を、どこか桟敷席のようなところでじっと見ている夕莉。
（立場はバラバラだけど、最終的に強い絆で、いろいろな問題を解決する物語）
　いろいろ問題はある。時空とか。ギャグと銘打っていないだけ、逃げ道はない。
（大丈夫。役になりきれば、怖いものなんてない……）
「我が剣は、正義の剣！」浅葱の着物が揺れる。

　はっと気づけば、生物部の姿はない。
　逃げた！　と華道部が臍を噛むや、世界が分厚い緞帳に包まれる。
　高い天井に張り巡らされる梁。
　どんなアクションに堪える、頑丈な床。
　そう、ここは舞台。
　夜の夢が演じられる劇場に、改めて存在しない月光が差し込み、存在しない風が吹く。
　不在の月が上り、コメディエアーが鬼哭の風となり、蕭蕭と吹く。

　驚異の演劇空間。
　凝った舞台装置など必要ない。
　立つべき役者が立つべき場所に立ち、吠えるべきセリフを吠えれば、それが舞台なのだ。
　
　掛け声とともに、夕莉と麗仁の斬撃が殺到する。
「チェストオオオッ！」
　薩摩示現流の掛け声は、どちらが発したにしても、考証的にレッドゾーンだったが、そういうことを気にしてはいられない。

　前衛に躍り出て、カーネーションではっしと剣を受け止めるこまち。
　蟀谷（こめかみ）のあたりを覆う能面が笑う。
　目の覚めるような黄色が、舞台にひらめく。
　飛沫をスポットライトに散らすエリカに、雛がすっと距離を寄せる。
「私は風船が欲しいのじゃ。ささ、見せるのじゃ」
　扇子に見立てた台本を優雅にあおぐと、白い花弁が渦を巻いた。
　巻き上がる旋風。かろうじて躱すところに、神速の剣戟。
「おのれ、盗人……」
　周囲を震え上がらせる、剣の達人だけがもつ凄み。
　魂の底から滾り立つ声が、麗仁の喉からほとばしった。
　とても、台本片手とは思えぬ、迫力のある声。

　居合の有段者である麗仁。なよやかで優し気な風情とは裏腹に、剣を持たせれば一流。
　リアルとフィクションの端境を、一閃、居合の剣が切り裂く。
　

　はッ――！！
　気合一閃、斬撃が飛ぶ。
　僅かにかすめた剣戟が、校舎の壁を撥ね飛ばした。
　連続した一撃が天井を微塵に砕き、窓ガラスを割り飛ばす。
　あとあとコメディエアーで修復されるとは言え、恐るべき剣の力。
　このまま戦いが継続すれば、寝子島が危ない！

　世に入れられることなく、日々あてどなく磨かれた剣。
　まるで「明日から本気出す」という執念が、ついに出すべき「本気」を迎えたようなもの。
　

「この『スーパーレジェンド伝説ko-ha-gi』が、皆さんの相手です」
　叫んで飛び出す小萩。
　個々の火力は甚大なれど、華道部の本義はチームプレイ。
　スポットライトに敢然と立ち、花を構える。
　何かの設定ができたようだ。
　妖しい魔性の姫君に、すこしもひるまず、夕莉は剣を構える。
　北辰一刀の剣の冴え。
　この一振りに、徳川百万石の重みがある。
　スッと地面を擦り、跳躍しつつ、夕莉は剣を振りかぶる。

（……北辰一刀流って、これでいいんでしょうか）
　些細な疑問が頭をよぎる。あとで聞いてみよう。　
　その場その場のノリも、重要なのだ。
　夕莉の唐竹割りを、小萩は間一髪で躱す。
　舞い散る花弁が、夕景に美しい。
　そこに紛れて、一枚の紙がひらひらと舞う。

『４３★１』

　――先般の寝子祭で、小萩が生徒会にそっと渡した秘密のメッセージである。
　（よさん、ほしい）
　乙女の口からは直に言い難い、この熱い思いを、生徒会に受け取ってほしい……！

　いろいろと生徒会も忙しかった。
　暗号の難易度が、ちょっと高めだった。
　さまざまな要素が絡み合い、ともあれ生徒会からの反応はなかった。

　今回の部費争奪戦、尋常じゃない気迫でのぞむ華道部。
　そこには、現生徒会への怒りの抗議の意味もあったのだ。

「ぬー、リベンジです」
　
火力勝負は演劇部の風船をひとつ散らすにとどまった。まだ序盤。