狭間の日｜リアクション

狭間の日

　――……い……おい……。
　声がする、と、服部剛は眠りの中で思った。
　外側――現の世界から、誰かが自分をそちらへと引きずり出そうとしているのだと朧気ながらも認識した時、
『……また左手を貫いたろか』
　声がくっきりとした輪郭を持って立ち現われて、剛は反射的に、がばと身を起こした。
　息が荒い。悪夢の中を漂ったあとのように、身体がじとりと湿っている。
『久しぶりやな』
　光を孕まない目をして、目つきの悪い青年――もうひとりの剛は笑った。
　前髪で左目を隠し、中学時代の学ランを着ている目の前の《剛》。
　自身を《剛の本質》であると称する彼との邂逅は、初めまして、では決してない。
　先ほどの相手の言葉のせいか、鈍く左手の甲が疼くような錯覚を覚えながら、身構える。しかし。
『……そう身構えんなや。ちと面貸せ』
　もうひとりの剛は軽く肩を竦めると、剛の困惑を置き去りにさっさと歩き始めてしまった。
　扉の閉まる音に、我に返る。
（……どういうつもりや？　今までなら、問答無用で殺しにくるはずやのに）
　相手の言動を、不審には思った。
　けれど同時に、早く追い掛けなくては、とも思う。
　相手は、かつて剛の友にも敵意を向けた相手だ。野放しにはできない。
「ああもう……着替える暇もないわ」
　口をついた言葉は、形だけを見れば余裕めいて見えなくもなかったけれど、その響きは硬質だった。
　無意識に己を奮い立たせようとしたものか――ともあれ剛は、そのままもうひとりの自分を追いかける。
　道中、特に言葉を交わすことはなかった。じきに辿り着いたのは、
（――海）
　ぞわり、と何かが背を這い上がってくるような感覚。
　波音を耳に、剛はぎゅっと唇を噛んだ。
（……海は苦手や……だって、）
『思い出してまうよなぁ。……あの日のこと』
　もうひとりの剛が、冷えた声で、剛の気持ちを代弁した。
　――《あの日》。
　中学時代。親友の誕生日。京都の『海を走る列車』。
　突然に２人を襲った、苛烈に降りしきる、痛いほどの、そして視界を奪うに十分な雨。
　滑る足。彼女の声が降る。伸ばされる救いの手。
　そして、彼女――明日菜は、剛が助かった代わりのように海へと沈んだ。
　彼女の身体は、剛が何とか岸まで引き上げたけれど、その眼は、未だ開かない。
　昏睡状態に陥った明日菜は、現在も病室にその身体を横たえている――。
『嫌われたない、置いていかれたない。繊細で歪んだ自分を笑顔で隠す臆病もん。それがお前』
　僅かに肩を跳ねさせて、剛は声の方へと眼差しを遣る。
　もうひとりの剛の言葉は、あの忘れ得ぬ日の記憶と共に、剛の心に突き刺さった。……けれど。
『……やったやろ』
　剛は見た。対峙するもうひとりの瞳の色が、瞬間、俄かに揺らいだのを。
　それを認識したのと、胸倉を掴まれたのはほぼ同時。
　首筋には、鋭いナイフが押し当てられていた。
『俺はお前が大嫌いや。憎い、許さない』

『忘れんな。俺はお前の本質。勝手に前には進ません。……その度殺したる』
　嗤いながら零される言葉に、口を挟む余裕はなかった。
　それでも剛は、首筋にちりりと痛みを感じる中で思う。
（こいつは……黒い俺は、何がしたいんやろ……）
　剛の思考を置き去りに、もうひとりの剛は、不意に剛のことを解放した。
　そうして、そのまま去っていく。
　まだ終わらない《狭間の日》を、彼は一体どのように生きるのか。どこへ行くのか。
（……俺はまだ、向き合うのが怖い。けど、）
　一瞬だけ、あいつは泣きそうな目をしてた、と剛はあの揺らぎを思い出す。
「……その理由を知れたら、俺達は一つになれるんかな……」
　呟いた声は、止まぬ波音に吸い込まれて消えた。
　返る言葉は、少なくとも今はまだ、剛の手ひらの中にはない。
「……痛」
　ナイフを突き付けられていた首筋に触れれば、べと、と指先を温く赤が濡らした。