深夜激走！　寝子島仮装マラソン大会｜リアクション

深夜激走！　寝子島仮装マラソン大会

　はるか先に見えていた弟の背中を、兄は捕らえた。市橋奏楽は弟、市橋誉を追いかける。勝つために、またわかり合うために。兄弟にとってこの仮装マラソンはわいわい楽しむイベントではなく、互いの心をぶつけ合う真剣勝負の場だった。
（誉にジョギングを教えたのは俺だ。今でも走るのは日課だ）
距離を詰めるが、なかなか追いつけない。思った以上に弟は速かった。兄が弟を追う、少し不思議な光景。そういえば一緒に走ることは多かったが、本気で競争するなんてことも子供の時以来だ、と奏楽は思い出した。複雑な思いがする。だが、それは不快な感覚ではなかった。
（――お前の気持ち。うれしくないわけがないじゃないか。誉は本気で、俺にプロを目指してほしいと思っている。だからこそ、ここまでの行動に出るんだ）
　弟は、兄がすぐそばまで追いすがっていることに気づいていた。ただ自分に追いつき、追い越す。それだけを目指して迫ってきている奏楽を誉は意識した。
（ジョギングは今でも続けてる。十分鍛えているつもりだ。出場を決めてからは特訓だってした。勝つために）
兄は本気だ。本気で勝負ができる、そのことがうれしかったが、同時に誉の心に陰を落としてもいた。
（――俺は、奏楽の気持ちを無視しているのかもしれない。今も少し、迷ってる。だけど、これが俺の願いなんだ。それを偽ることはできない）

　奏楽はあともう少しというところで、誉に並べずにいた。追いつけないわけではない。今いる場所は、彼自身のためらいの表れだった。
（音楽に関しては、もう俺は誉に及ばないかもしれない。もうそんな自信はないんだ。すでに誉は俺の前を走り出している。どんなに努力しても、その背に追いつけなかったら？　そう思うと、俺は……）
暗い思いが心に宿る。それは絶対に認めたくない感情だった。
（安っぽいプライド、なんだろうな）
自嘲する。そして、思い切る。奏楽はぐんと一歩を踏み出した。
黒い影が誉の視界の横に現れる。はっきりとした形を取る人影。奏楽が、誉に並んだのだ。
「俺は奏楽のピアノを世界に知ってもらいたい！　その価値があるって知っているからだ！」
「俺も譲るわけにはいかない！　俺はお前の兄でありつづけたいんだ！」
ゴールを示す、スタジアムのまばゆい照明が見えてきた。兄弟は光の渦に飛び込んでいく。歓声と熱気との中を、奏楽と誉はひたすらに走った。汗が流れて目に入り、優雅なタイは解けて首にまとわりついた。二人は走る。並んで走る。誉が前に出たかと思うと、奏楽が抜き返す。走って、走って、二人は転がりこむようにゴールラインを切った。

タオルを持った係員が近づいて来る。奏楽と誉は地面に寝転がったまま、やっとの思いで言葉を発した。
「じゅ……順位は……」
「どっちが、先、に……」
「ペア仮装でのご出場、お疲れさまでした！　お二人は三位です！」
係員は二人を助け起こしながら、笑顔で答えた。
ペアじゃない、もちろんユニットでもない、競争していたんだと伝えようとした。だがもう喉がからからで、息が詰まって声が出ない。奏楽は転がったままかすれた声で笑い出した。
（そうか、そうか。俺たちが意地張って競争してても、周りにとっては『一緒の兄弟』なんだな）
誉も釣られて笑う。息切れしながら笑う声はおかしな調子だったが、心から楽しく、すがすがしかった。
（勝ち負けなんてもうどうでもいい。今こんなに楽しいじゃないか……そうだよな、奏楽？）