「また銘柄を変えたのか」
「女と煙草はできるかぎり色んな味を試してみるのが俺のポリシーだ」
最悪の哲学をいけしゃあしゃあとひけらかし、時任が皮肉げに笑う。
いつものキャンパス、手垢にまみれた他愛ない会話。
カフェの向かいの席に座った時任が喫っているのは俺の知らない外国産の煙草、噎せ返るように甘く濃厚な紫煙が漂ってくる。
煙草と同列に語るのは女性の人権を無視してる。そう指摘しようとしてやめた。お前が言うなとやりこめられるだけだと省みる程度の自覚症状はあるしなにより時間の無駄だ。
時任は自分の横顔が一番映える角度を知ってる。
誰に教わらなくても時任彼方というブランドの引き立て方を知っているのだ。
俺とは違う。もとよりこいつと競うなど愚かしいまねをするつもりはないが、なにもかも正反対、一切の共通項が見当たらない男が何を好き好んで俺みたいなつまらない男と付き合っているのか常に疑問がつきまとう。
まるで爪のささくれのような違和感。
本を読む手元にまで紫煙が流れてきて辟易する。
顔を上げて時任を睨みつける。
時任は退屈そうに頬杖ついたまま、物憂い表情を煙らせてどこか遠くへ視線を投げている。
何をしていても絵になる男だと関係ない所に感心する。
口に咥えた煙草から漂う紫煙が俺の周囲を取り巻こうがおかまいなしだ。
読書を続けたいのに集中力を散らされて、無表情を装う顔に不快感がまぎれこむ。
「煙草はやめろ」
「喫煙席だろうここは」
「わざとやってるのか?」
「いやならお前が席を立てばいい」
そこで小首を傾げ、指の間に預けた煙草を軽く掲げてみせる。
「文句を言う時間が不毛だとは思わないか?お前の好きな効率論だ。利益と不利益の比率を考えろ」
正論を主張するかのような堂々たる態度に、非常識をなじられているような錯覚に陥りかける。
禁煙席は満員で座れなかった。その為空きの目立つ喫煙席に移動したのだが、遅れて来た時任が当然の如く煙草を喫いだすのを見て判断ミスを呪った。
時任の言い分は一理ある。
が、先に来て座っていた側が追い払われるのも腑に落ちない。
自分でも大人げないとは思う。他の人間が相手なら引く事にも自分を下げる事にも抵抗は感じない、それで場が丸く収まるなら上っ面などいくらでも取り繕える、不測の事態にも小器用な処世術で柔軟に対応できる。
だが確信犯の嫌がらせなのか天才故の気まぐれなのか判断に迷う時任への接し方はむずかしい。
一瞬の逡巡。
人さし指と中指の又に挟んだ煙草を持て余す。
指の間で煙草を捏ねる仕草に困惑を見抜いたか、意地悪く頬杖ついた時任が畳みかける。
「手本がいるか」
自分の魅力が一番ひきたつ角度と所作を知り抜いた時任の戯言は無視、根元を押さえる人さし指と中指で乾いた唇に触れる。
甘ったるく退廃的な香りがふと鼻腔をつく。
時任が身に纏う香水の匂いと直感、煙草の匂いと香水の匂いが綯い交ぜになって胸が悪くなる。
気持ちが悪い。吐き捨てたい。俺の中から追い出したい。異物を入れたくない。
慣れた素振りでけだるく煙草を喫う時任の仕草を反芻、脳内で再生した残像に倣って深く息を吸う。
「――げほごほっ!」
急激にせりあがる嘔吐感。咄嗟に煙草を遠ざけ突っ伏す。
生理的な涙が滲んで視界が霞む。
発作的に咳き込みつつ周囲に迷惑がかからぬよう口許を覆う、眩暈と酩酊と吐き気が一緒くたに襲う最悪の気分……
「はははははははははっ!」
店内に響く大音量の哄笑に周囲の客が振り返る。
上体を屈めてえずく俺を、正面にふんぞり返った時任が指ささんばかりに笑い飛ばす。
椅子から転げ落ちそうなまでに仰け反り、ノーブルに整った顔をくしゃくしゃにし、豪快に大口開けて目尻に涙まで浮かべ爆笑している。
殺意が沸く。
「……………彼方、」
「そんな顔で睨むな。興奮する」
目尻の涙を拭いつつ逆の手ですっと煙草を取り上げ、ごく自然に自分の口許へと運ぶ。
「逆恨みするな。お前が勝手に喫ったんじゃないか」
「唆したのは誰だ」
「本当に初めてだとは思わなかった」
「……幼稚すぎる。今度という今度は友達をやめたくなった」
漸く咳がおさまった。
いがらっぽい喉をさすり起き上がる。
まんまと策に嵌まり滑稽な醜態をさらした気恥ずかしさも手伝って、しっとりと涙の膜が張った目で恨みがましく睨めば、睨まれた本人がうっとり蕩けきった微笑を浮かべる。
「お前の顔が歪むところが見たくて」
「会話になってない。お前はまずその破綻した人格と倒錯した性癖を矯正しろ」
忘れていた。こいつは俺の顔を歪めるのが好きなのだ。その為ならあらゆる手を使う。
俺から回収した煙草を皮肉な笑みが似合う唇でついばみ、悪戯っぽく諭す。
「最初は拒絶反応を起こす、でもそのうちにやみつきになる、口寂しくて手放せなくなる。ついには毒が回って命とりだ」
「どこかの誰かみたいだな」
「ああ、そうだな」
その通りだよ、遙。
時任が煙草を噛んだ。
妥協しろと囁く理性に従って席を立つべきか、活字に目を落としつつ悩む俺を不躾に値踏みし、時任が口元を緩める。
「頭はいいくせに要領が悪いな」
関節と長さの均整が絶妙な指が煙草を弄ぶ。煙草を挟んだ指の動きにピアノを愛撫する仕草が重なる。
時任がおもむろにテーブル上に身を乗り出し、指の股に固定した煙草の穂先で俺を示す。
「喫うか」
思いがけぬ問いに躊躇い、小さく首を振って拒否する。
「……喫った事がない」
「だろうな。潔癖症だからな、お前は」
まるで俺以上に俺の事をわかっているような口ぶり。
椅子の背に深く凭れ、優雅に長い足を組み、顔を仰向けて紫煙を燻らせる。
「食わず嫌いは人生の損失だ。享楽に耽らなければ快楽は生み出せない。人を感動させるものは容易に人を堕落させる、二つは同じものでできている。煙草を喫うのも女を抱くのも衝動の根源は一緒だ、俺は俺の中の空虚を充たして埋めたい、暴いて貪りたい。俺の中を充たしてくれるなら肉でも煙でもいい、個体か気体かだけの違いだ。人は所詮死ねば土か煙に還るんだからな」
「随分と虚無的だな。無神論者か」
「まさか。俺はカトリックだぞ」
大仰に目を見開いて驚いた芝居をし、指の間の煙草を器用に弄びつつうっそりと付け足す。
「俺の演奏で神を悪魔に堕とすのも一興だがな」
笑い飛ばす気にはなれなかった。
「存在自体が道徳を冒涜してる癖に悪い冗談だ」
時任彼方には周囲をそう納得せしめるだけの才能がある、凡人を平伏させてその上を鼻歌まじりに歩いていく暴威のような才能だ。
「さあどうする」
喫うか拒むか二択を迫られる。
時任は端正な顔に薄く笑みを浮かべ俺の反応を観察している、優位に胡坐をかいて面白がっている。
肯ても拒んでも思惑に嵌まってしまう泥沼の心理戦。
道楽者に暇潰しのネタを提供するのは不本意だが、駆け引きから逃げたらますます付け上がらせてしまうのではと懸念し、抗う素振りをしつつ煙草を受け取る。
結局は無言の重圧に屈した。
時任への反抗心とつまらないプライドが、ロシアンルーレットの銃口さながら挑戦的に突き出された煙草を前に、みすみす引き下がるのをよしとしなかった。
時任の指から俺の指へ、火のついた煙草が滑らかに譲り渡される。
煙草を受け取る瞬間、互いの指先が一瞬だけ触れ合う。時任が薄く笑ったのが見えた。