藍色のグラデーションがかった艶やかな黒髪の左右をお団子にまとめ、すべらかな水蜜桃の頬にほんのりと朱を上らせた幼女が、ソファーの上に子猫のように丸まっている。
ロリコンなら狂喜するシチュなんだろうが、生憎俺はロリコンじゃねえ。
「だからなんで俺のソファーなんだよ」
タオルで濡れ髪を拭きつつ、あどけない寝顔にむかってうんざりぼやく。
シーサイド九龍のシャワーは水しか出ねえ。
どう頑張った所で真夏に老人の小便みたくちょろちょろ錆臭いぬるま湯を漏らすのが精一杯ときたもんで、冬場は滝行を積んでいる気になる。
なお濡れ髪はパソコンの排気熱で自然乾燥させるのが俺のスタイルだが、だからぼさぼさなんじゃねーかと思わないでもない。寝癖を注意されるたび最近流行の無造作ヘアーなんだよと通してきたがそろそろその言い訳も苦しくなってきた。劉さん髪跳ねてますよ景貴と洋美が逐一お節介焼いてくんのもうざってえ。
「まいったな……」
前髪からぽたぽた滴る雫をほうったらかし、首の後ろに巻いたタオルで顔を拭く。
九龍の地下に巣篭るにあたって粗大ゴミ置き場から引っ張ってきたおんぼろソファーは、俺のベッド兼ごろ寝用プライベートスペースとして日常的に大活躍しているが、今は赤の他人にまるっと占領されている。
……いや、他人じゃねえか。
「一応姪っ子だな」
頭に一応がつくのはついこないだまで存在を知らなかったから、互いにまだ見ぬ間柄だったからだ。
こいつがひょっこり現れた時は本当ぶったまげた。
25年間生きてきたが、俺に姪っ子がいるなんざついぞ知らなかった。
タチの悪ィ冗談が何かじゃねーか勘繰った。隠し子の可能性のがまだありうるとあとで組長にぼやいたら童貞がなにぬかす剥けてから言えと爆笑されて傷心をほじくり返された。
劉瑞麗。
本人曰く俺の腹違いの兄貴の一人娘、らしい。
年の離れた腹違いの兄貴の存在は知っていた。親父と前妻の間にできた子供で、俺が物心つく頃にゃ既に成人して中国に帰っていたから交流もとんとなかった。
その兄貴の子供が何故かシーサイド九龍に転がり込んでいる。
ああ、いや、違う。「何故か」じゃねえ。嘘のようなホントの話、この無鉄砲なガキは、他でもねえ俺を頼ってはるばるこの辺鄙な島くんだりまでやってきたのだ。
酔狂を通り越して狂気の沙汰。思い込んだら断崖だって駆け上る子供の純粋さが成せるワザ。
今しがたの暴言が美味に彩られた至福の夢に影響を及ぼしたのか、瑞麗が眉間に川の字を刻む。
「あいやー。るいりの胡麻団子ないない。だれ食べた?」
「犯人は組長」
タオルを被ったまま傍らに屈みこみ、声のトーンを一段階落としてむずがる姪っ子の耳朶にデマを吹き込めば、柳眉が剣呑に跳ね上がる。
「組長ひどい。鬼畜。外道。人非人」
「まったく酷え組長だよな。組長被害者の会結成するか?」
「胡麻団子ノ恨ミ晴ラサデオクベキカ……」
「組長の胃で消化されたんじゃ胡麻団子も浮かばれねえよな」
「るいりの胡麻団子……」
「どうでもいいが胡麻団子は所有格で語らなきゃいけねー決まりでもあんのか?」
「あいやー」
「あいやー」
平和だ。あくびがでそうに平和だ。
ソファーの土台に凭れ足を崩して座り込む。寝子島にきたばっかの頃はこの島でこんな呑気な会話ができるたァ思わなかった。おまけにのほほん癒し系おかん属性のカノジョとまったりとトホホお人好しのダチにも恵まれ順風満帆な毎日だ。
「……寝言に返事を返すと縁起悪ィんだっけか」
迷信だが少し不安になる。
一時期はどん底の底も抜けそうな最悪の日々を過ごしていたが、今の暮らしにゃそこそこ満足している。薄汚い廃ビルの地下にひきこもりパソコンの液晶とにらめっこする日々がそう苦でもねえのはあいつらと出会えたからだ。俺の好物のチョコチップマフィンをいそいそ差し入れにくるダチと手作り弁当持参で様子を見にくる危機感の薄い女の顔を思い浮かべ、いつになくしんみりする。
こいつにもいつかそんなやつができるのだろうか。
辛い時に心の支えになってくれる人間が。
「…………」
「ん?」
ふやけた寝言を聞いた気がして腰を浮かす。途端に膝がかくんと落ち、前のめりに躓きそうになる。
身を捻って振り返りゃぱっちりと目を開けた瑞麗と視線がぶつかる。
「叔叔……」
青紫に翠のさした透明度の高い宝石のような瞳が、どこまでも深く澄んだ眼差しを送ってくる。
「いっちゃ、や」
寝起きの放心した表情ながら、か細い声で必死に懇願する瑞麗。
視線を落としその手を辿れば、まるっこい五指が俺の首からぶらさがったタオルの端を縋るように握りしめていた。
「胡麻団子……たべる」
「寝ぼけてんのか?」
「叔叔のぶんもおかわり」
「二人分食うのかよ」
「小姐におみやげ」
「へいへい」
「みんなで胡麻団子……だんごむし……ごろごろ……ろーりんさんだー」
一体どんな夢見てんだか。
だからってこの部屋の先住権を明け渡したつもりはねえ。
「おいこらどけよ」
気持ちよさそうに寝息をたてる姪っ子に邪険に言い放つ。
無視された腹いせに軽くソファーを蹴るも、瑞麗はちんまり丸まったままうんともすんとも言わねー。
見かけによらずふてぶてしいガキだ。
いつまでもこうして突っ立ってたってラチがあかねえ。
襟首をつまみあげて捨てて来ようかとも思ったが、九龍にたむろうむくつけき野郎どもに誘拐されて売り飛ばされでもしたらさすがに寝覚めが悪ィ。
血の繋がった姪っ子だからというよりは、単にガキが慰み者にされるとこを見たくねえという個人のトラウマに起因する忌避感情だ。
ガキにかかずりあうとろくなことにならねえと人生二十五年の経験則で痛感している。
「てゆーかあっちのウチはどうしたよ、ちゃんと言って出てきたのか。書き置きは?ここくるって知ってんのか。警察沙汰になんのはごめんだぜ、まーた俺が電話してワケ説明するハメになんのかよ、あァん?」
われながらガラが悪ィ。寝ているガキ相手に凄むのも大人げねぇ。
こんな治安の悪ィ廃墟のなにが気に入ったんだか、瑞麗は居候としておいてもらってる家を度々抜け出しちゃあこりずにシーサイド九龍にやってきて俺のねぐらにもぐりこむ。そんで俺がちょっと目を離した隙にいつのまにかソファーでくーかくーか寝てやがるのだ。
悩み事などひとつもなさそうな寝顔にむかっ腹が立ち、同時に嗜虐心をくすぐられ、デコピンを打ち込もうと人さし指を撓める。
三秒後、額を押さえて飛び起きるだろう瑞麗の涙目を想像してにやついていたら……
「叔叔」
耳が拾った寝言にデコピンが空振る。
前屈みにのりだし、あらためてソファーを見下ろす。
破れ目から綿のはみ出たボロソファーに横臥する瑞麗。
極彩の糸で蝶を刺繍したチャイナ服の胸郭が健やかに上下し、ふっくらした唇が規則正しい寝息を紡ぐ。
その唇がふいに綻び、つねりたくなるようなご満悦の表情で何かを咀嚼するしぐさをする。
「………胡麻団子おかわり」
「泥団子でも食ってろ」
意味深な間をもたせやがって。時間差攻撃か?