彼方には人の女に手をだす悪癖があった。
恋人を寝取られたのも一度や二度じゃない。
それをカタチだけでも反省するのなら少しは可愛げもあるだろうに、なじられても泰然自若とした態度を崩さず、それがどうしたと不敵に開き直るのが常だった。
いや、不敵にというのは少し違うだろう。悪ぶってるつもりなど本人には毛頭ないのだ。だからこそたちが悪い。
部屋からピアノの演奏が聞こえてくる。
最初の一音だけでわかる、間違えるはずもない彼方の音だ。弾いているのはアイツだ。ドアを開けて中へ踏み込む。
俺のちょうど正面、こちらに背を向け突っ伏すようにピアノを弾く男。
鍵盤の端から端へ凄まじい速さで飛び交う指、残像を追うだけで目が疲れる。
両腕と連動して上下する背中、技巧の極みに到達したと思えばそれは助走にすぎないとでもいうかのように進化と深化を遂げ続ける演奏。
アイツが今浮かべている表情が瞼の裏にちらつく。
君主の如く自信に満ち溢れた傲岸不遜な表情。
おだて、愛撫し、奉仕する。
そうやってピアノと情を交わす姿はひどく官能的だ。
音に乗せて甘やかに睦言を紡ぐようで、見てはいけないものを見ているような、タブーを犯しているような後ろめたさが付き纏う。
誰だったか、有名な評論家が言っていた。時任彼方のピアノは耳を犯すと。
一度彼のピアノを聴いてしまえば他のモノじゃ物足りなくなる、けして満足できなくなる。聴けば聴くほど深みに嵌まる、粗悪な麻薬のような、極上の媚薬のような……そんな演奏だと。
ひとを堕落に誘う音楽があるとしたら、それはきっと時任彼方の弾く曲だ。
ある時は煉獄で鍛えられた炎のように激しく、ある時は永久に溶けないコキュートスの氷のようにきらめく音色。
実際ピアノを弾いている時の彼方は痺れるような存在感を放ち、勢い踏み込んだものの声をかけるのを躊躇わせる。
ピアノを弾いてる時の彼方は身の内に神と悪魔を同居させている。
何か超常的な、凡愚の理解を超えた神秘的な力によって守られている。だから、むこうが俺に気付いているとは思いもしなかった。
「言いたい事があるなら突っ立ってないではっきり言ったらどうだ」
ピアノの演奏が終わる。
一気に走り抜けた余韻がかき消えぬうちに言い放たれ、逆に驚かされる。
「そうやって気付いてもらえるまで黙って待ってるつもりか。受け身もすぎると卑屈だぞ」」
彼方はプライドが高すぎる。それが真心からのいたわりであってもけして同情を受け付けない。
人の優しさや善意にはなから価値をおいてない。彼方が唯一価値を見出す信条は支配と被支配、一方が一方をねじ伏せ屈服させる隷属的な力関係だけだ。
傑出した才能は他を淘汰するという絶対的な価値観。
天才ならばそれが許されると信じて疑わない、吐き気がするような傲慢。
けだるげに顔を上げ、俺の目をまっすぐに射竦めて運命を予言する。
「お前は俺から離れられない。それを忘れるな」
ああ。
俺はコイツが嫌いだ。
殆ど憎悪してると言っていい。
そして俺は、とうとうその予言を覆すことができなかった。
hatred(ヘイトリッド) 〔名〕憎しみ、憎悪、嫌悪