『あなたなんて産まなきゃよかった』
「おい!」
飽和量を超す悪意を口に詰め込まれ溺れ死ぬ寸前に悪夢から息を吹き返す。
叩かれて腫れた頬がじんと痺れる。
緩慢に数回瞬き、薄膜が張ったように鈍く虚ろな目が漸く理性を点し、コンクリ剥き出しの殺風景な天井の中心に焦点を取り結ぶ。
誰かがすごい剣幕でこちらを覗き込んでいる。
黒スーツをラフに着崩した三十路過ぎの男。
オールバックに撫で付けた黒髪と鋭い双眸を飾る銀縁メガネが端正な造作に知性を加味するが、獣のような険がある風貌は明らかにその筋の人間の特徴だ。
おっかねえ顔。
眉間に寄った皺がただでさえ怖い顔にちびりそうな迫力を付与している。
「……あんた、殴った?」
「うるせえからな」
思い出すのもおぞましい悪夢から助け上げてくれたのだ、感謝しなければいけないのだが素直に礼を言えないのは頬に残る痛みのせいか、人の生活空間と心にずけずけ踏み込んでくるこの男自身への拭いきれない苦手意識と反発のせいか。
「毎度毎度勝手に入んな。強盗かと思うだろ」
「とるもんなんか何もねえくせに」
当の本人は小言など気にした素振りもなく、大股に室内を歩き回っては手の甲で壁を殴って反響の仕方を確認し、机上に放置された読み捨ての雑誌をぱらぱらとめくっている。
勝手知ったる馴染みの情報屋の巣、遠慮会釈は一切ない。
元よりそういうキャラじゃないのは承知の上だが、それにしても……
(リラックスしすぎだろ)
額にはりつくばらけた前髪を神経質に払いつつ露骨に迷惑がれば、さも心外そうに肩を竦めて返される。
「んだよそのいや~なジト目。まさか親にも殴られた事なかったなんて言うんじゃねえだろな」
はっと鼻で笑う仕草もひどく様になっている。この男には人を小馬鹿にした表情がよく似合う。
常日頃から舎弟に傅かれやりたい放題暴れている産物だろう尊大さは、しかし暴力慣れしたヤクザの威圧よりもわんぱくなまま育ってしまったガキ大将のあけすけな憎めなさに通じている。
「……人の寝顔見て面白え?」
「間抜け面で笑えた」
「見物料請求するぞ」
「一時間十円?」
「安すぎ」
「相場だろ。ひーちゃんの寝顔なら一時間百万の値打ちはあるが。見るか?」
「隠し撮り?ドン引き」
「馬っ鹿、小さい頃のだよ。肌身離さず持ち歩いてるんだ。この天使の寝顔が目に入らぬかってな」
「出してもひれふさねーから。ご隠居の印籠並に濫用してると効果が薄まるぜ」
「写真は色褪せてもひーちゃんの可愛さは不滅だ」
見るかといそいそと背広の内に手をやるのを冷ややかに制し、無意識にテーブルを手探り煙草を引き寄せようとする。
男がそれに気付き、手前に転がっていた潰れかけのソフトパックを卓上に滑らせる。
阿吽の呼吸で這わせた手の中に滑り込んだ箱から一本抜き取り薄い唇の端にひっかけ点火、深々と一服すれば漸く人心地がつく。
五臓六腑に染みわたる紫煙の美味さに酔いしれつつ、オレンジ色に爆ぜる穂先から立ち上る紫煙を目で辿る。
「で、用件は」
「暇潰し」
「ああ?」
ヤクザってンな暇なのかよ。
胡乱なジト目で睨んでやれば相手は実に楽しげに笑う。打てば響く痛快な笑顔。
「そうつれなくすんな、俺とお前の仲だろうが」
「情報屋と客の腐れた縁だろ」
「それが命の恩人に言う言葉か」
ドブに流したい過去を蒸し返され、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込む。
この男……神無月文貴と出会ったのは数か月前、まだ肌寒い春先の宵。
命からがら横浜から落ち延びたものの銃撃で負傷し、埠頭の倉庫街を足をひきずりつつ徘徊していた劉を助けたのが偶然車で通りかかったこの男だった。
「寝苦しそうだったが、何の夢見てたんだ」
まただ。
寸手で舌打ちを堪え、顔を顰め辟易する。
こいつは最初に出会った時からちっとも変わってない、いつだってずけずけと人の心に土足であがりこんでくる。
「関係ねえだろ」
「関係はねえが、興味はある」
にやつく顔にどす黒い殺意が沸き立つ。しかし真っ向から口答えする勇気はなく、またそうしたら拳固で小突かれるのは経験則で予知できるため、意地悪く嗤う男から卑屈に顔を背け、世間話を吹っ掛けるような軽さであてこする。
「娘元気?」
効果覿面、男の顔がひくりと引き攣る様を横目で認め溜飲を下げる。