イマジネーション。
　例によって瞬時に舞台転換が行われた。
　遠い未来、あるいは遠い過去、地球とは歴史を異にする惑星の物語だ。
　この星にひとつの軍事帝国があった。無敵とうたわれる騎馬軍団を擁し、世界の隅々まで戦争と破壊、蹂躙と支配の手を広げていた。
　すでに帝国の版図は地上の半分を占めており、事実上、世界の支配者としての地位にあった。皇帝の権威は絶大、しかしこの男は慈愛の人ではない。むしろ正反対といっていい。権力欲と横暴が具象化したような人物である。
　帝国首都には、都市ひとつに匹敵するほどの巨大かつ壮麗なる宮殿があり、同じく巨大な後宮があった。
　志桜里が暮らしているのは後宮だ。
　月夜のテラスにて玻璃の杯を、片手に握ったまま志桜里は溜息をつく。
　まとうは、長く薄い翡翠色の綾衣（あやごろも）、胸元はあいており紅色が入る。黒髪を飾るは絢爛豪華な金の髪飾り、三千人ともいわれる皇帝の側室、その誰もがうらやむほどの価値をもつ品である。
　されど側室らが真にうらやむものは、宝石より志桜里の美しさであろう。燦然と輝く美は、夜空の月にも星々にも勝る。
　征服された王国の末裔、それが志桜里の立場だ。皇帝の目に止まり、亡国の民の助命と引き換えに後宮入りしたのである。志桜里の美しさに皇帝はたちまち魅せられ、後宮のはなれに壮麗な塔を築くと、最上階に彼女を住まわせた。
　国を滅ぼしたときと同様、皇帝はすぐにでも志桜里の純潔を蹂躙するかと思われた。
　しかし皇帝は非常に迷信深い性質であった。自身の信じる神に願掛けとして、黄金郷と呼ばれた古代の都を発見するまで志桜里には手を触れぬと誓ったのである。軍を率い、皇帝みずから探索の旅に出たのが一年前のことだ。
　爾来、志桜里の生きる目的は塔にこもり、やがて訪れるその日を待つこととなった。ただひたすらに美を磨く、それだけを求められた。自由など無論ない。後宮はおろか、塔から一歩出ることすら許されていないのだ。日常接する相手とて、能面のように冷たい表情をした数人の女官のみである。
　逃げようかと思ったこともある。いっそ塔から身を投げて、と考えたことも
　しかしいずれかをなせば、志桜里の懇願によって救われた無辜の民たちは、むごたらしい手だてで皇帝に殺戮されることだろう。民はみな奴隷の身分とされたが、長く時間をかけた拷問死に比べたら、いくらかましにはちがいない。
　大理石の手すりに手をかけ、志桜里は夜空を見上げる。
　今にも黄金郷発見の報がもたらされるかもしれぬ。
　駿馬にまたがった皇帝が荒々しくあらわれ、塔の扉を押し開けるかもしれぬ。
　いかように身を飾ろうと、志桜里の瞳にやどる愁いを取り去ることはできないだろう。すべてはいずれ、悪魔の贄（にえ）に饗されるものなのだから。
　志桜里は祈った。滅ぼされた故国の神に、声を出して祈りを捧げた。
「せめて皇帝の帰還が、少しでも先になりますように――」
「なんとも悲しい願いじゃないか」
　志桜里ははっとしてふり向く。
　ごく数人の女官しか入ることを許されていないこの場所に、はじめての来訪者があったのだ。
　若い女性だ。自分より、いくつか歳上と思われた。
　女性は緋色の衣装をまとっていた。長衣、異国の花を散らした図柄。髪飾りも同じモチーフだ。黒く長い髪を伸ばし、鮮紅色の瞳で志桜里を見ている。大きく開いた胸元は、双つの果実さながらにゆたかであった。
　綺麗なひと――。
　相手が何者かと思うより早く、志桜里が抱いた印象はそれだった。
「あんたかい？　志桜里ってのは」
　女性が軽く背後をみやると、そこにひそんでいた気配が消えた。
　かすかに金属音が鳴ったところからして、甲冑を着た兵士がいるものと思われる。
「はい」
　女性の美しさ、そして威容に志桜里は圧倒された。けれども恐怖は抱かなかった。彼女は悠揚として優しげな口調だったからである。
「……あなたは？」
「秋ってんだ。聞いたことくらいあるかね？」
　志桜里はすくみあがった。皇帝の正式な妃、つまり皇后の名前ではないか。
「皇后陛下、このような場所に行幸いただき……」
　とっさに平伏しようとする志桜里を、「いい、いい」と止めて秋は言う。
「噂の姫君、一度会ってみたくってねェ。すぐにでもと思ったんだけど、別に用事があって後回しになっちまったよ。どれ、顔を見せてごらん？」
　秋はしずしずと近づくが、
「畏れ多いことで……」
　志桜里は怯えたように膝を折ろうとする。
「なんだい怖がらなくたっていいじゃないか。あのバカ……皇帝が、願掛けの対象にするほどの美貌、よく見てみたいってのが人情だろう？」
　あのバカとは！　志桜里は絶句する。この地上で、皇帝を公然とバカ呼ばわりできる人間がほかにいるだろうか。うかつに口を滑らせて、早々にさらし首になった国民がどれほどいたか知れない。皇帝の銅像を汚したというだけの理由で、住民全員が誅殺された小都市もあるくらいだ。
　だが発言者自身はまったく気にしていない体で、志桜里のあごに指をかけ上を向かせた。にやりとする。
「ふぅむ。なるほど、絶世の美女じゃないか」
「そ……そんなことはありません」
「謙遜はよそうよ」
　殺されるかもしれない、瞬間的に志桜里はそう思った。絶対的権力者の愛妾を正妻が手にかける、ありがちな話である。
　でも――。
　不思議な感情が志桜里の胸をよぎった。
　この人に殺されるのなら、それもいいかもしれない。
　しかし誤解されたまま死ぬわけにもいくまい。勇気をふりしぼって志桜里は言うのである。
「謙遜だなんて……ちがいます！　皇后様は私よりもずっと」
　志桜里の頬が赤らんでいる。
　顔が近いのだ。秋の顔が。
　駄目だ。目をそらせない。秋の大きな瞳に吸い込まれるような心地がする。
　桜里は恍惚の表情で叫んだ。
「私よりもずっと、美しいです！」
「そいつはお世辞だろう？」
「違いますっ！」
　志桜里はいささかむきになった。
「つやのある黒髪、長い睫毛、きらめく紅色の瞳、すべて素敵です。ビューティフォーです！　それに」
　鼻息も荒く詰め寄る。今度は秋が圧倒される番だった。
「そ、それに……？」
　と秋が二歩後退したところで、
「それに、巨乳です！」
　志桜里はぺたっと、秋の胸に両手を乗せたのだ。
「うひゃあ！」
　秋の声を聞いてフル武装した兵士たちが姿を見せた。全員女性の兵士だ。
「あ、いや大丈夫。みな下がれ……下がってて……」
　バストに手を置かれたままの姿勢で、なんとか威厳を保とうとしながら秋は手を振った。皇后の威厳が保てたかどうかはさておき、女性兵士たちがすぐに姿を消したことは事実だ。
　秋の顔は真っ赤だった。
　志桜里の顔だって真っ赤だった。
「……それで」
　コホンと空咳して秋は志桜里から離れる。さりげなく胸を隠すようにして、
「今宵はそういう話をしにきたわけじゃあないんだ。朗報がふたつあってね」
「と言いますと」
「ひとつ、志桜里は自由だ。解放してあげよう」
「えっ！？」
「いかな帝国とはいえ、皇帝が一年も政治をほったらかしておいて政権がもつはずないだろう？　志桜里はずっと塔にいたから知らなかっただろうけどね、もうとっくにこの国は私の統治下にあるんだ。強権支配にはみんなもう飽き飽きしてンだよ。すべての奴隷は解放した。もちろん志桜里のいた国の民も同じさ」
　あっけらかんと秋は語っているが、楽な道のりではなかったはずだ。志桜里に会いにくるのが後回しになったのも、さもありなんというやつである。
「あ、あともうひとつの朗報とは……？」
　するとこれまた、あっけらかんと秋は言うのだ。
「バカ皇帝は死んだよ」
「えっ！？」
「帝位を奪ったと知らせたら、アイツ大慌てで軍を戻してきてね。私の軍とあいつの軍は昨日、西の平原で決戦したのさ。でもアイツの兵士の大半は、嫌々働かされていた奴隷だ。あっという間にこちらについたよ。戦は半日とかからなかった」
「皇帝は……」
「こともあろうに馬から落ちてポックリ」
　一代でのしあがった覇者としては、あまりにあっけない最期だったという。
「じゃ、まあそういうことだから志桜里は荷物をまとめて帰りな。帰路の護衛はちゃんとつけるよ」
　颯爽と身をひるがえし、秋は志桜里に別れを告げたのである。
　意外と面白い子だったね、と思いながら秋は階段を下っていく。
　帝位を奪ったからといって終わりではない。まだまだ帝国再生のための仕事は山積みだ。明日から後宮の解体工事を指揮せねばならない。でもせっかくだからこの塔だけは、壊さずモニュメントがわりにでもしようか。
　そんなことを考えながら塔より出た秋の背中に、とびつくようにして志桜里が追いついた。
「待って……待ってください皇后、いやさ女帝陛下！」
「うん？」
　反射的に胸をかばってしまう秋である。
「私、これから陛下にお仕えしていいですか！　仕えさせて下さい！」
「なんだい藪から棒に？」
　言いながら秋はもう、なかば心を決めている。言葉を交わしたのはほんのわずか、けれどその短い時間に秋は、相通じるものを志桜里に感じたのだ。国を背負うという重責がなければ、自分から声をかけていたかもしれない。
「仕えるったって、楽な仕事じゃないよ。私はこれから国を作り変えなきゃいけないんだ」
「覚悟の上です！　それと……」
　兵士の手も盾もかいくぐり、猫のようにしなやかに疾風のごとくすばやく、志桜里は秋に肉薄したのである。
「よければこれからはどうか、御姉様と呼ばせてくださいっ！」
　イエスと言うかわりに秋は、志桜里の肩をぐいと抱き寄せたのだった。
　イマジネーションは霧のように消えた。
「遠い世界の物語……状況が変わっても私は、お姉様とお近づきになれるのですね？」
「そうだねェ。ああいうシチュエーションも面白そうだよ」
「でも、思いません？」
「何を？」
「もしかしたらさっきのは夢物語ではなく現実で、もしかしたら寝子島の私たちこそ、女帝とその忠実な側女が想像したお話の登場人物なのかもしれません」
「ほう、とすると私が天蓋付きのベッドに横たわり」
「私がお姉様の疲れた体をマッサージしながら、遠い惑星に暮らすお姉様と私の日々を、想像して笑い合っているのかも」
「胡蝶の夢、って言うんだっけか？　漢文の授業で習った記憶があるよ」
　ご存じのようにここは夢の中、夢の中で自分たちが、また別の夢物語であるかと夢想する。それもまた、楽しいものではないか。
　初詣はリスタート、天竺より通そうに見えた神社本殿が、もう目と鼻の先だ。
「意外！　もう着いてしまいました」
「な？　あっという間だって言ったろ？」
　秋は硬貨を二枚取り出す。一枚を志桜里に渡し、一枚は自分で握った。
「じゃ、お賽銭と行こうか」
「はい！」
　ゴトンチャリンと賽銭の音。
　ガランガランと鈴の音。
　手を鳴らす。ふたり同時に。

☆　☆　☆

　夢は覚めても記憶はきっと――。