谷が桜色に染まる時｜リアクション

谷が桜色に染まる時

　昼休みを迎えた。寝子島高校の各クラスが賑やかな声で溢れる。
　普通科の一年二組も例外ではない。仲の良い者達が集まって放課後の予定に嬉々とした声を上げた。
　その中、梓智依子は自分の机でスマートフォンの画面を眺めていた。時給の高さに目を引かれ、業務内容を読み耽る。画面に顔が近くなり、はっとして顔を上げた。
　――新一年生なんだから、もっと楽しいことに目を向けてもいいよね。
　反省した顔となり、ねこったーの話題に目を通していく。
「……これは」
　寝子島の九夜山に関する呟きに目が留まる。山中に桜谷と呼ばれるところがあると書かれていた。当時の桜は全て絶滅しているが、稀に満開の桜を見ることができるという。
　智依子は苦笑いを浮かべた。画面から目を離し、横手の窓へ向けた。澄み渡った青い空を見て少し表情を和らげた。

　日曜日、旧市街の家にいた智依子は迷いながらも今日のバイトのシフトを変えて貰った。
　窓の向こうの空は学校で見た時よりも青かった。自然に気分が浮き立つ。色々と詰め込んだリュックを軽やかに背負い、祖父母に幼い愛娘の楓の世話を頼んだ。
　快く送り出された智依子は九夜山を目指す。黙々と道を歩き、緑に囲まれた山道に足を踏み入れた。
　明るい色合いのウインドブレーカーが陽光に照らされて光り輝く。ボトムスにはスカートに見えるショートパンツにスパッツを合わせた。
「意外と、暑い……」
　背中のリュックを下ろした。山道の露出した山肌に背を預け、持参したペットボトルの緑茶を喉に流し込む。用意した保存食を口にしてスマートフォンを起動する。桜谷の位置を示す簡易地図を見た。
　――この先を少し行って、左の方にある獣道を進んで、道が途切れているのね。
　更に歩いてゴツゴツした岩のところを迂回するように上がって行った先ね。
　桜谷の方向に目を向ける。木々に阻まれて先は見えなかった。
「まだまだね」
　一息入れたあと、智依子は登山を再開した。

　地図に従って山中を歩き回る。すでに道はなく、膝に手を添えて斜面を上った。
　――この辺りのはずなのに。
　灰色の目を緩慢に動かす。代り映えのしない風景に溜息が漏れた。その過程で苔むした岩を見つけて腰掛けた。
　顔の汗をタオルで拭う。ペットボトルの緑茶で喉を潤し、弁当箱を膝に置いた。
　野鳥の囀りが聞こえた。涼し気な響きに耳を傾ける。
　――楓が聞いたら、どう思うのだろう。
　優しい目となって弁当を食べる。最後に緑茶を飲んだ。
　力が戻ったのか。しっかりと斜面を踏み締めて歩いた。
　山深いところに突然、道の痕跡が現れた。辿っていくと急斜面に出くわした。
「これが、桜谷？」
　不安に思いつつ、途中の木を掴みながら降りていく。滑り易い石に注意しながら進んでいくと木々の合間に細い川が見えた。
「あったわ！」
　声を上げて木々を抜けた。川辺に立ち、谷を一望する。両側から押し寄せる木々は常緑樹を主張する。華やかな色は微塵もなかった。
　諦めの悪い目が探す。
「桜の木は……ないのね……」
　静かな流れの川に目がいく。とても細く、途切れそうな状態であった。
　――なんだろう。悲しい気分になる……川の字が家族に例えられるから？
　私は十四歳で未婚の母になった。彼を愛していたのに、子供ができた途端に冷たくされて……。
　あの時は本当に、辛くて悲しかったよ……。
　一筋の涙が頬を流れる。
「え、ウソ……」
　突然、視界に花弁が入り込む。瞬時に顔を上げると谷は桜色に燃えていた。全体が満開の桜の木で占められ、青い空を淡い色で染め上げる。
「これが、桜谷、なのね……」
　頬は涙で濡れた。
　笑顔のまま、智依子は泣き続けた。

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