みんなで楽しいひなまつり！｜リアクション

みんなで楽しいひなまつり！

　その、東京にいるはずの甘く懐かしい深林真瞭は、今、ねこでんに揺られていた。

　前日から、真瞭は東京で泊まりがけで所属楽団の練習をしていた。近く演奏会があるのだ。演奏に関して真瞭が手を抜く事はなかった。たとえ楽団自体が非常に居心地のよくない場所になっていたとしても。
　そして、練習が終わると、真瞭はすぐに鎌倉に向かう電車に飛び乗った。鎌倉からすぐに寝子島電鉄に乗るために。寝子島に、帰るために。

　真瞭は、疲れていたのだ。楽団のゴタゴタに。真瞭の心は、悲鳴を上げていたのだ。その心を抱えて過ごすには東京は殺伐としすぎていて……ここ最近は真瞭は練習が終われば東京の家ではなく、セカンドハウスとして使っている星ヶ丘のマンションで過ごすようになっていた。
　有り体に言えば『家出』である。出る際には家族もいないので誰にも迷惑をかける事もない。しかし、逃げるように身を潜める寝子島には、彼女にとって大事な人がいた。深倉理紗子。中学時代からの親友である。
　しかし、真瞭は『家出』の事を理紗子には伝えていなかった。心配をかけたくなかったし、繊細な彼女に自分の心に溜まった毒を全部吐き出してしまいそうで怖かったのだ。
　自分の心の傷は、自分でそっと癒すしかない。この毒が回るのは自分だけでたくさんだ。

　ささくれた心を独り抱えた彼女を乗せ、ねこでんはゆっくり進む。やがて電車は寝子島駅に到着した。
　ホームの様子を見た真瞭はちょっと眉を上げた。心なしか賑やかな感じがしたのだ。
（……何だろう？）
　このままマンションに帰っても特にする事もない。真瞭はふらりと寝子島駅で降りる事にした。

　駅の改札口を抜けた真瞭は、ようやく今日が何の日か思い出した。駅から真っ直ぐ続く商店街の道には、『寝子島神社』『ひなまつり』ののぼりや垂れ幕がいくつもあったからである。
「ひなまつりか……早いわね。もうこんな季節……」
　真瞭は思わず呟いた。駅から降りた人々は、笑顔で寝子島神社に向かっていく。興味が惹かれた真瞭は、人の流れに沿うように神社に向かって歩き出した。

　参道商店街も、神社の参道も、非常に活気に満ちていた。こういったいつもと違う、非日常的な光景は、心をワクワクさせてくれる。真瞭はあちらこちらを覗きながら歩いていたが、ふと自分がお腹が空いている事に気が付いた。
　そういえば、朝から何も食べていなかった。というか、食事自体、最近は大して楽しみにも思う余裕もなかった。
（何か、適当なものをお腹に入れようかな……）
　お好み焼きにタコ焼き、焼きそば。焼き鳥の匂いも食欲をそそる。真瞭はその唇の端に笑みをのせながらどの屋台にしようかと思案し始めた。
　カロリーは……あとで落とせば無問題！

　ちょこちょこと買い食いをしながら歩いていった真瞭は、社殿のある境内に着く頃にはだいぶお腹を満足させていた。
　境内ではあちらこちらで桃の花が咲き、春が近い事を人々に教えている。そんな光景に真瞭は何だかほっとする。そして参拝をすませた真瞭は、『ながしびな』ののぼりが立てられているのに気が付き、社務所に行ってみる事にした。
　社務所では巫女さんが薄桃色の人型の紙と笹の葉を配っていた。紙に願い事を書いて猫又川に流すのだという。真瞭はさっそく願い事を書くと、呟いた。
「……是非叶って欲しいものだけど」
　そこに書かれていたのは『今の自分の置かれた立場が少しでもマシなものになりますように』との文字。
　真瞭は願いを書いた紙を眺め、ふうと息をついた。もう、こうなりゃ神頼みよね。
　ちょっと肩を竦めると、真瞭は今度は笹舟を作り始めた。出来たらこれを猫又川に流しに行こう。お天気もいいし川縁も気持ちがいいかもしれない。そうだ、参道を下りる時に、気になってたあの屋台も寄ろうかな？
　ふふと真瞭は少し頬を緩める。思いもかけず楽しいおひとりさまのひなまつりとなったのだった。