モノローグの空｜リアクション

モノローグの空

【浅葱あやめの場合】

　朝食を終えて出かけていく、祖父の背中に声をかける。
「……いってらっしゃいませ……お気をつけて……」
　聞こえただろうか。ちゃんと声は届いただろうか。快活な祖父のことだから、また『はっきり喋らんか、まったく』などと思われているかもしれない。
　今日の朝食だって……時短法を試してみたけど、大丈夫だっただろうか。いつもと違う、妙な味だと思われていないだろうか。やっぱり、プロのようにはいかないなぁ。
　いや。きっとそう思われてる。心の中で。きっとそうだ。
　朝からどこか気落ちして、ぐるぐると陰鬱なイメージを延々と頭に巡らせながら、食器を洗う。水の冷たさに、また少し気分が落ち込んだ。

　いつから、こうだったんだろう？　僕はいつだって、くよくよと悩みに悩んで。臆病で、いつも誰かに怯えていて。自分の発した言葉が引き起こす何かが漠然と恐ろしくて、声はぼそぼそと小さくしか出なくて、良く聞き返されることがある。そうしてまた、気は沈む。
　ふと思い立って、コーヒーを淹れることにする。後ろ向きな思考からの逃避かもしれないけれど、そうすることで、少しは気分が持ち直すことを期待して。我ながら、つまらないなぁ、とは思う。
　いつもはインスタントで済ませてしまうけど……そうだ。湿気らせてしまうのも良くないし。あの店を真似て、淹れてみようか。
　思えば、不思議な店だった。夢を見た……過去。どこかで間違えてしまった、自分の過去。その間違いを正して、僕の理想の世界を体現した……そんな夢。
　少女となっていつかの日を再びたどる。そんな夢。あの日の体験を思い返すと、何だかひどく胸が詰まった。
「でも……」
　楽しい夢、だった。そう思う。
　あの日に飲んだコーヒーは目が覚めるような苦さで、けれどその苦さは口の中や胸の内にじんわりと余韻を残して、とても印象深かった。あの味を、どうにか、再現できないものだろうか？
　ぽつり、ぽつりとフィルターを通して落ちる黒々とした雫を眺めながら、しばらくぼんやり、あの夢を思い出して浸る。本来はそうあるべきだったはずの、正しい自分の夢を。
「うっ」
　落ち切った雫をカップに注いですすってみると……苦い。苦くてひたすらに、渋い。泥のように濃いあの味を再現するには、何かコツがあるのかも。マスターは、失敗した、なんて言って笑ってたし。
「はは……」
　ついつい自分も、苦笑いしてしまった。

　自責の念が薄いことに気が付いたのは、それから少し経って、開店の準備を始めた頃のことだった。
　誰かに笑われれば、驚くほどに心が傷つく。些細な失敗に、恐ろしいくらい沈み込んでしまう。それが、僕だというのに。
　朝からの祖父とのやり取りや、苦すぎるコーヒー。いつもなら、すっかり打ちのめされてしまうっていうのに。
　少し…………少しだけ。僕は、変わり始めているんだろうか。
　思えばこのところは、特にいろんなことがあった。暗い僕にも、変化は起こる。あの、喫茶店での夢。いつかに見た、胸を抉り尽くされるような悪夢。かと思えば、ほんの些細な、でも僕には胸が詰まってしまうような、嬉しい出来事も。
　……増えてきた、交友関係も……増えてきた、と思っていいんだろうか。もしかしたら、一方的にそう思ってるだけかもしれないけど。少しでも親しくなれたと、そう思ってるのは、僕のほうだけかもしれないけど。
「でも……それでも」
　そうだとしても。
　少しずつ、でも確かに……変わっているのかもしれない。
「……僕は」
　変わっていけるのかもしれない。少しずつだっていい、ゆっくりとだって構わない。

　店を開ける。
　差し込んだ朝の光は、いつもより何だかまぶしくて、明るい気がした。

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