夜明け前、薄暗い部屋。
星ヶ丘寮の一室で弓弦原譲は目を覚ます。
シンプルな木材の本棚に書籍が充実している他は目を賑やかすインテリアもない、とても多感なティーエイジャーの生活空間とは思えぬ殺風景な内装。
部屋の隅に寄せられた無機質なパイプベッドは囚人用と言われても納得してしまいそうなそっけなさで、実用性の他には何も重んじず必要としない所有者のストイックな性格が窺えた。
中途半端な時間に起きてしまったせいで頭が妙に冴えている。
深夜というには蒼褪めて夜明けというにはまだ早い時間帯、二度寝は困難だと経験則で痛感している。
こんな時はただひたすら無為に時間を潰すしかない。しかし実家にいた頃と比べたら大分マシだ、あの頃は安らかに眠れた試しがなかった。
大人びてはいても彼もまだ15歳の少年、未明の闇の中では他人に敬遠される虚勢が抜け落ち痛々しく無防備な素顔をさらけだす。眠気の残滓の虚脱感を持て余しつつシーツを蹴って寝返りを打つ。弛んだ襟ぐりから鎖骨が覗く。その背を追いかけるようにして幻聴が響く。
『おにいちゃん』
鼓膜に甦る舌足らずに甘い声、
『行っちゃやだおにいちゃん、ずっと の でいて!』
泣きじゃくり縋りつくいたいけな少女の残像としつこくつきまとう幻聴を、瞼に強く手首を押しあて追い払う。
書籍が散らばるパイプベッドの上。
無造作に身を横たえ、寝乱れて額に貼り付く前髪を透かし、虚ろな目で天井を仰ぐ。
手元には睡魔に襲われ読みかけで放置した文庫本。
頁に挟まれているのは一葉の写真。品行方正な両親に挟まれた可愛い娘、理想的な家族の肖像。
その中で唯一の汚点、異物を排除するように油性マジックで執拗に塗り潰された少年がいる。
はにかむように笑んでこちらを見詰める少女の横に本来いるべきはずのもう一人の子供が消され、何重にも渦巻く油性マジックの黒インクと、隣り合う服の裾をきゅっと握る少女の手のみが僅かにその痕跡を留めるのみ。
「……………」
脳裡に過ぎる英文。
I don't think I fit in here.
ここにも、どこにも、居場所がない。
青に沈む部屋。まるで深海の底。
無音の水圧の檻に閉じ込められて指一本動かすのすら気怠い。
闇を透かして高い天井を仰ぐ。
不覚にも眼鏡をかけたまま眠りにおちた事に気付き、何度目かわからぬ失態を自嘲する。
無造作に眼鏡を外して瞼を擦り二回瞬き、改めて天井の中心に目を凝らせば、水面下から見上げた世界のように屈折して軸が歪む。
もがきもせず堕ちて溺れて、体の内側から暗く冷たく閉ざされ、緩慢に窒息していく。
写真に手を加えたのは譲だ。
命令したのは継母だ。
泣いたのは妹だけだ。
圧力をかけられたとはいえ兄自身の手で塗り潰した写真の跡を、激しく泣きじゃくりながらくりかえし濡れティッシュで拭っていた、まだ小学生だった頃の妹の姿を思い出す。
どんなに頑張っても油性マジックの跡が消えるわけないのにと、やはり小学生だった譲は、馬鹿な奴だと心底呆れて無表情で眺めていたものだ。
おかげで写真はふやけきって、乾いた後も表面が波打っている。
そんな写真をわざわざ栞代わりにしてるのは悪趣味な自傷行為だと自覚はある。
深い理由はない。
意味もない。
たまたま手元にあったからと己に言い訳する一方で、瘡蓋を剥いで傷口を抉ることでしか実感できない切実な何かを渇望している。
青に沈む。
水圧に似た沈黙が無防備な鼓膜を浸潤する。
陰鬱で憂鬱な淡い目覚め。
微睡みを濾してその上澄みを照らすように、青のグラデーションがゆっくりと推移していく。
カーテンの隙間から射し込む一条の光の隧道を、淡雪に似せて海底に沈殿するプランクトンの死骸のように埃の微粒子が循環する。
部屋を満たす闇は既に朝焼けの兆しを孕み白み始めている。
………
フリイラのおまけSSに加筆修正。