ヴェネツィアが一年で最も華やぐマスカレードの宵。
水上の舟で逢瀬を愉しむ恋人たち、弾け飛ぶ泡と酌み交わされる酒杯、祝祭の喧騒に乗じて嫋嫋と流れてくる奏楽……
その喧騒から隔絶された石造りの街角にひとり青年が佇んでいる。
着古した外套の下には飾りけないシャツと地味なスラックス、清貧を美徳とする哲学科の苦学生じみたいでたちながらどこか気品漂うその青年は、先刻から落ち着きなく波止場に面した水路の方角を見遣っては不安げに瞳を揺らしている。
待ち人来たらず。残酷な言葉が脳裏を巡る。宵もたけなわ、月は既に中天にさしかかっている。潮風に乗じて切れ切れに届く宴のさざめきも心をいたずらに乱すばかり。
傍らには古びた鞄。旅支度は整っている。波止場には舟を舫いである。あとは彼女さえ現れればすぐにでも出立できるのだが……
約束の刻限を過ぎても一向に姿を現さぬ待ち人に募る不安を紛らわせようと、顔を覆う仮面にそっと手を触れる。
翼を広げた白鳥を模した優美な仮面。表面には精緻な装飾が施されている。
彼女はこれと対になる黒鳥の仮面を付け、彼の元へ馳せ参じるはずだった。
禁断の女の園、修道院を抜け出し。
厳しい監視の目を掻い潜り。
「…………」
まさか、彼女に身に何か?
駆け落ちがばれて責め立てられているのでは。
不吉な想像を払拭せんとかぶりを振るも じっとりと湿気を含んだ夜闇が爪先から侵食するように忍び寄る。
寄せては返す波が土台に打ち込まれた杭を削り徐徐に腐らせ、やがてはこの美しい水上都市に緩やかな崩壊を招くように、猜疑心と不安とが青年を内側から確実に蝕んでいく。
胸元に吊るした懐中時計の金鎖を手繰る。上蓋を跳ねあげ文字盤を見る。
刻々と時を刻む秒針、時間は無慈悲に過ぎていく。
その表情は仮面に隠され窺い知れないが、引き締めた口許に苦い諦念が滲む。
「……ルチア」
そんなに不安なら確かめにいけばいい。
だが、果たして自分に堂々と訪ねる資格があるのか。
彼女が翻意したのなら……土壇場で青年を拒絶し神に余生を捧げる決断をしたのなら、自分が訪ねていくのは迷惑なばかりか彼女を貶めかねない軽率な行為。
なにより貞節を尊ぶべき修道女が男と逢引したなどと知れたら世間はどう思うか。
それが清い交際だとしても、不貞を働いたと勘繰る下衆の輩はどこにでもいる。
彼女の評判を落としたくない、彼女が心ない中傷の的になるのは彼とて望まない…
欺瞞だ。
そんな外聞に阿る些事はどうでもいい。本音は怖いのだ、現実を認めるのが。直接訪ねていって拒絶されるのが。軽蔑の眼差しで射抜かれたら?他人のように冷たく振る舞われたら?
地位も名誉もなにもかも擲ち、一途に追い縋った女性に拒まれたら……
『あんたは偽善者だ。結局自分が一番可愛いんだ』
『愚にもつかないプライドだよ。あんたには魂がない。あんたが作る楽器と同じ、からっぽだ』
きつく目を瞑れば遠い日の声が耳朶に甦る。
夜は更ける。月は傾く。喧騒は遠ざかる。
石造りの街角に立ち尽くす青年は、夜が白々と明ける頃合い、長い夢から醒めたように緩慢な足取りで波止場に舫いであった舟に乗りこむ。
未練を振り切るように縄をほどいて杭へと巻き直し、作業を終えてひとりごつ。
もうすぐ完全に夜が明ける。
夜を徹して行われた祝祭の残滓は曙光によって掃き清められ、厚化粧を落とし淑女を装う娼婦のように美しく完璧な朝がくる。
たゆとう舟の上に立ち、空を切り裂いて一条射し渡る朝日の眩さに目を細めつつ、夢見るような手つきで仮面を外す。
「……Addio」
アディーオ。
それは永訣の言葉。
再び相見ることはない別れの挨拶。
比翼の鳥はとうとう片割れとつがうことがなかった。
完