彼の名は神嶋征一郎と言った。
「なかなか面白い奴がいるんだ」
新しい玩具を見つけた口調で時任がそう言い放った時、真っ先に感じたのは安堵。
次はまだ見ぬ相手への同情。
こんな性悪に目をつけられて気の毒に。
これでこいつの嗜虐の対象が新たな被害者に移ってくれればと期待したのは否めない、その頃の俺は歳月を経ても一向に減じない時任の束縛にいい加減閉口していたから。
その期待は残念ながら報われずじまいだったが、メフィストフェレスにも喩えられる超絶技巧で栄光の階段を駆け上がり、今や音楽界の寵児として脚光を浴びる時任が、才能で劣る人間を見下して憚らないあの時任彼方がごく珍しく褒めた名前は、俺自身の意志に拘わらず頭の隅に刻み込まれた。
それから歳月が過ぎて神嶋征一郎の演奏を初めて聞いたのは夏の音楽祭、星ヶ丘のステージ。
今年のネコフェスで俺が所属する寝子島クラシック同好会は真夏の夜の夢を演じた。
もはや説明するまでもないだろう。真夏の夜の夢は文豪シェイクスピアの代表的な戯曲、妖精と人間、様々な思惑が入り乱れ錯綜するたった一晩の恋のから騒ぎを描いた喜劇だ。
舞台袖で忙しく裏方に徹していた俺にも、その音色は届いた。
ピンと張り詰めた四本の弦上をヒステリックに狂奔する弓が紡ぐ情熱的な旋律、ひとの深奥に根ざす呪われた情動を揺り起こし搔き立てる暴嵐のような演奏。
自在に翻る弓捌きは閃光に似て、禁欲的に見えるほどの真剣さで引き締まった端正な容貌と、獰猛な肉食獣を彷彿とさせるしなやかな身ごなしが、聴衆の耳だけでなく目までも余すところなく惹きつける。
鋭利に研ぎ澄まされた切れ長の瞳は髪と同じ蒼氷の色で、正確無比な技巧の冴えと競うように氷針めいた眼光が冷え込んでいく。
炎は高温ほど青く燃える。
ふとその事実を思い出す。
第一印象は氷の炎。
身も世もなく燃え狂いつつ氷の殻を破れず煩悶する青い雛鳥。
不死鳥の雛ならいずれ炎に化身して羽ばたく事もできようが、若く愚かで傲慢なこの雛鳥は、いまもって自慢の声で啼くしか術を持たない。
喉が潰れるまで啼き、血を吐くまで唄った所で、身の内から己を苛む凍てついた炎は癒せぬというのに。
『分野違いだが、なかなか面白い奴がいるんだ』
『炎みたいに狂おしい音をだす。それもただの炎じゃない、氷の炎だ。凍てついてるんだ、コキュートスみたいに』
まだ十代半ばを少し過ぎたあたりだろうに、飴色に艶光りするヴァイオリンを斜に構え、隆(りゅう)と弓を操る尊大な態度が絵になるのは、天才特有の自信のなせる技か。
あたり払う威風で堂々とヴァイオリンを弾きこなす横顔に被せ、いつかの時任の言葉を反芻する。
「……悪趣味だ」
時任彼方が神嶋征一郎という一個人に興味を持ったのは、自分自身と似ているからに相違ない。身勝手を極めた男が他人に関心を抱く理由は利己に尽きる。
だが、俺は?
彼の演奏を聴いてどう思った?
一番しっくりくる言葉を選ぶならそう、「忌まわしい」。
時任はいない、もう死んだのに、俺はとうとう自由になったのに、彼の演奏は俺をあの頃に否応なく引き戻し亡霊と対峙させる。
同じヴァイオリンなら赤毛の彼の方が余程好感を持てる。
これは俺の私見だ。偏見と言い換えてもいい。
したがって、本音など誰にも話すつもりはない。
今まで通りNCCでは中心から外れた存在として年下を世話すればいい。
人間関係や進路、音楽との付き合い方に悩んでいる子供には、人生の先輩ぶってアドバイスの一つ二つでもしてやれば簡単に信頼が勝ち取れる。
元々時任の死の真相の手掛かりが得られないかと利己的な動機で入ったサークルだ。
今まで通り俗な本音は一切出さず、誰に何を訊かれても掴み所ない愛想笑いで遇すればいい。
そう思っていた。
季節の変わり目のあの夜、彼とふたりきりになる機会が訪れるまでは……
【そんな季節の変わり目に】へ続く
PL:
神嶋征一郎さんをお借りしました。
ご快諾ありがとうございます。