諦めるのには慣れていた。
諦念に毒され不感症に痺れた心で漠然と余生じみた日々を生きていた。
この手は何も掴めない。この手は何も生み出せない。
思えば物心ついた時から何かを欲しいと強く望んだ覚えがない。
誰も必要とせず誰からも必要とされない。
誰にも寄りかからず自分の面倒だけ見て独り静かに生きていきたい。
互いを理解し補完しあう人生のパートナーなど求めてはいない、俺が人間関係に求めているのは虚しさをほんのひと時埋め合わせてくれる割り切った相手、飽きたらお互い都合よく切り捨てられる一過性の遊び相手。縋りつかれるのはまっぴらだ、依存するのもされるのもどうしようもない嫌悪感を抱く。
一つの対象に執着するということはその対象と心中する事だ。
自分を殺して、相手も殺す覚悟のある人間にしかできない事だ。
何故手を伸ばしてしまったのだろう。
彼女の髪が綺麗だったから。
嘘じゃないが、どんな理由をこじつけても言い訳にしか聞こえないのは何故だろう。
清冽な月光に青く濡れ、風に靡く髪の尾にふと気付けば手が伸びていた。
指に絡む髪の絹のような質感が気持ちいい。しっとりとしめやかで、まるで手に吸い付くようで、指の股をすり抜ける感触が儚くこそばゆい。
指から逃げていく髪を名残惜しく思うことなど久しくなかったというのに、恥を忍んで告白すれば、一抹の未練を感じてしまった。
指に絡む髪を持て余す事はあっても、惜しむ事はなかったのに。
もう一度彼女に触れたい。
肌ではない、髪の一筋でいい。
神経の通ってない、体温など伴わない、痛覚もない端きれがいいい。
それで十分だ、それならば飼いならせる。
寄せては返す波の音が鼓膜に響く。
おくれ毛を纏わせ俯く少女の微熱を帯びて潤んだ瞳、淡く血の色を透かす頬から、含羞と綴じ合わせた動揺が手に取るように伝わってくる。
彼女の肩越しに広がる海は、月光を吸い込み硬質な紺碧に輝き渡る。
鏡面の如く深沈と凪いだ海が、先日の夢と共振し既視感を揺り起こす。
白衣のポケットに手を突っ込んだまま堕ちていたのは、どのみち何も掴めないとわかっていたから。
天に手をさしのべても虚しく空を切るだけ、すり抜けるだけ。
俺が求めるものはそこにはない。
空の上には誰もいない。
アイツがそんな所にいる訳がない。いるとしたら地獄か煉獄だろう。
「……砂が付いていた」
酷い言い訳だ。もっと上手い釈明はないのか。一回りも歳の離れた子供を相手稚拙な誤魔化しをする自分に嫌気がさす。
不審に思われたかもしれない。どうでもいい。
あの時、夢の中では最初から諦めてポケットに突っ込んだままだった手を何故今出してしまったんだ?
何故掴んでしまったんだ?
自分の言動の不可解さに当惑し、ポケットにしまいそこねた掌をじっと見詰める。
そこに答えなどあろうはずもなく、ため息を吐くと同時に閉じてポケットに入れる。
彼女と並んで砂浜に座り、夜空と溶け合う水平線に視線を投じる。
この海の底にあいつがいる。今もピアノを弾いている。
目を閉じれば思い出す。
散骨の見立てのように水面にばら撒かれた鈴蘭の花茎、水圧に塞ぎこんだ耳がうたかたにまどろみながら聴いた旋律、俺の耳にはけして届かない沈黙のレクイエム。
彼女の中が視たい、と唐突に想う。
彼女の本性を、素顔を暴き立てたい。
たった今不意の衝動に駆られて髪の毛を掴んだように、俺の事を信用しきって無防備に隣に腰掛ける、この純粋で安直な少女の中身を暴き立てたい。
限りなく独占欲に近い衝動に駆りたてられ、所在なく持て余した手が疼く。
綺麗なものが見たい。
純粋なモノを汚したい。
彼女の中はきっと綺麗なはずだから。
二律背反の葛藤を理性で丁寧に糊付けし、胸の裡に綺麗に折り畳む。
こんな邪まな発想に至ること自体あいつに感化された証拠なのかもしれないと苦々しく思いつつ、体の横に翳した手で一握の砂を掴み、指の隙間からぱらぱらと零して夜風にさらわせる。
でも、それはしない。
サディスティックな衝動に委ねて一線をこえたらきっと歯止めがきかなくなる。
手から零れた砂をけして取り戻せないように、それらが風にさらわれ粉々に飛び散るのをただ見送るしかないように、一度犯した過ちはけして償えない。
俺はもう、できない贖罪を背負い込みたくはない。
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「落ちるだけの」(阿瀬春MS)&「ゆら、ゆらり、と海の月(つるこ。MS)の遙視点心情補足SS