俺は当事者が語る幸せと不幸を信用しない。
当事者の口から語られる幸せと不幸はこの上なく胡散臭い。それが俺の持論だ。
誤解しないでもらいたいが、これは偏見ではなく単純な経験則だ。
俺は29年のけして短いとは言えない人生経験上、本当に幸せな人間が幸せを語った例を知らず、本当に不幸な人間が不幸を語った例を知らない。
幸せを、あるいは不幸を騙る人間なら飽きるほど見てきたが。
幸せと不幸は背中合わせのシャム双生児だ。真逆の方向を向いているように見えて核心の脊髄が癒着している。幸せと不幸は対義語であり同義語だ。人は幸せを騙りながら不幸を、不幸を騙りながら幸せを語る、二律背反の落とし子なのだ。
薄情な人間だという自覚はある。
だがこれが物心ついた時からの習性だった。
俺はどうあがいたところで俺にしかなれない。俺の痛みは俺だけの物、人の痛みはその人物固有の財産だ。
自傷の苦痛には自慰の快感が伴う。
さりとて現在進行形で新鮮な血を流すグロテスクな傷口をいたずらに見せびらかす人間はいまい、もし傷が開いたなら痛みが強すぎてさらせるはずがない。
抜糸の痛みを吹聴できるのも縫合痕を自慢できるのも全て既に終わった事だから、既に克服した過去の幻痛の残滓だから。
だがその痛みが未だ続いていたらどうだろう、全身をたえまなく苛んでいたらどうだろう、それを口にできるだろうか。
同情はモルヒネのように甘い。だからもっともっと欲しくなる。だがモルヒネは治療薬ではなく麻薬だ、依存性が強いからこそ一度味わうと手放せなくなる。
感傷に浸れるのはそれが感じられる程度の痛みだから、時折思い出したようにほのかに疼く程度の傷痕だからだ。
本来の傷は「感じられる」などという生易しい段階をとっくに通り過ぎ、凝縮された苦痛の塊としてそこに在るのだ。
現在進行形の激痛はくだらないナルシシズムなど粉々に打ち砕いてしまう。
過去と現実を秤にかけたならいつだって現実の痛みの方が圧倒的な体感を伴う真実であり、過去の辛い体験などは日々忙殺され瞬く間に薄れてしまう。
裏を返せばどんな激痛もそれが永続せず一過性ならば耐え凌ぐことができるのだ、人間は。
鍵盤に人差し指をおく。俺はピアノが弾けない。弾き方がわからない。
『遥は弾けなくていい。俺が弾くから』
きっぱりと言いきった、どこか思い詰めた横顔を追憶する。
『またモルヒネをやるよ。欲しいだけな』
結局俺は時任の事をなにもわかっていなかったのだろう。
それでも俺はあいつの友人だった。
ならば友人として義務を果たそうと思う。
だが、彼方。
「モルヒネが手に入らないのに、中毒者はどうやって生きていけばいい」
共依存の連鎖は片方の死によって唐突に断ち切られた。
忘れていた、忘れていたつもりだった、忘却の慣性を代償に依存から脱却したつもりだった。なのに時任は俺の音楽を地獄へ持って行った、俺から音楽を取り上げて心中してしまった、それはあまりにずるいじゃないか。欲しがるだけ与えて手懐けて飼い馴らして、魂を飼い殺しにした癖にもう二度と手に入らないと自覚した途端にどうしようもなく欲しくなる。
過去の残響が耳を呪っている。
指の先端に僅か力を込めて押し込めば鍵盤が沈み、ぽん、とまぬけな音が鳴る。
音楽家は演奏で感情を代弁するという。
そういえば大学を卒業してから、ここ何年も時任の演奏をまともに聞いてなかった。
動画サイトに上がった映像は時間が許す限りチェックしていたが、仕事で帰宅もままならぬ日が続くなか、身を入れて聴いていたとはお世辞にも言いがたい。
それに機械を通した時任の演奏は麻薬の効果が薄まって、波長のズレと違和感ばかりが増していくのだ。
もしもっと真面目にあいつの演奏を聴いていたら、無理にでも仕事を抜けて生で聴きに行けば手遅れになる前に異変に気付けたのだろうか。
俺は幸せを語る人間の幸せを信用しない、不幸を語る人間の不幸を信用しない。
幸せも不幸も隠し立てできず自然と内から滲みでるものだから、口から出た途端にそれは誰かに聞かせるための、あるいは自分に言い聞かせるための虚しいツクリゴトになってしまう。
だが音は嘘をつけない。
彼方の演奏は、いつも真実だけを語っている。