祈りが、愚者の行為であると私に言ったのは誰であっただろう。
今日も聞こえる。歌劇のような鮮やかな声。
観客はベッドから身を起こしている私だけ。
舞い踊るように身を振り切って、
相手に立ち向かい、私の可聴領域を超えた声で言葉の刃を向け合って。
それは部屋のスクリーンで見た喜悲劇に、とてもとても良く似ていたのを良く覚えている。
何ヶ月続いただろう、
歌劇の題名は……『私』だった。
劇中の女性は男性の縋るように差し出した手を振り払い、踵を返し部屋を出た。
舞台には男性のみが残り幕を閉じた。観客の『私』だけが残った。
拍手の代わりに、静かに手に組んで目を閉じた。
どこで覚えたのだろう、私はそれが祈りだと知っていた。
しかし、舞台から降りた男は言った。生まれてから、数度に近しい掛けられた言葉だった。
『祈ってはいけないよ。祈りは弱者が行う行動を放棄した最後の愚行だ』
その言葉の声の主の音が、本当はとても優しかったことを、昔は覚えていたような気がしたけれども。
今は、覚えていない。
『ああ、祈りが愚行だと言ったのはお父様だ』
お父様の言葉は未だに覚えている。
あの時の私は、歌劇の題でありながらも何よりも無力で。
祈りとは、己の無力を認めること。出来る事は何も無いと認めること。
張り上げられない声で、舞台の邪魔も出来なかった私の無力さを映し出して。
実際にそこにいた私に手段などありようもなく。
では、私に出来た事は何だったのだろう。答えは記憶にも無い闇の中。
ここに来てから、わたしは変わった。
祈りに願いを、祈りに希望を。
祈りはろっこんという形で、わたしに力を与えた。
わたしはもう無力ではない。
お父様の言葉を覆す力を。祈りが無力な愚者の最後の愚行にはさせないだけの力を手に入れた。
……この力が、あの歌劇中に使うことが叶ったならば──そう思うには、時間は残虐に過ぎていたけれども。
「お父様、わたしにとっての『祈り』は無力ではなくなりました」
しかし、この力も何時か無くなるのだろう。直接人に影響をきたすこの能力そのものを疎む人もいるだろう。
それでも、思う。
わたしの祈りは、無力な弱者の最後の愚行でなくなったのだと。
(しかし、だとしたらそれは一体『誰が為の』力なのか)