薔薇園なんて来るんじゃなかった。
嫌な事思い出しただけだ、胸糞悪ィ。
足早に去りゆく胸中に澱の如くどす黒い思いが蟠る。
沸々と滾り立つ憎悪。アドレナリンが全身の血管を駆け巡る感覚。ささくれだった神経を慰撫しようと無意識にポケットを探り、がさつな手つきで煙草の箱を引っ張り出す。
脚は止めぬまま唇の端にひっかけライターで火をつけ深呼吸。
肺腑に紫煙が染み渡り、ほんの少しだけ苛立ちが中和されたような錯覚を覚える。
煙草は毒だ。故に毒をもって毒を制す。
まだだ、まだ足りねえ。
まだまだ足りねえ。
足りる事なんか、きっとない。
死ぬまで。永遠に。いつもいつまでも。
無為で無意味な人生、惰性で呼吸するだけの無気力で自堕落な日々、怠惰に怠慢を掛け合わせ悪徳に耽る日々。
充たされない、満ち足りない、それは自分が背負った業のせいだとわかっている。
絶望と諦観が閉じた心を麻痺させる。心を占める虚無感が立ち去る足を鈍らせる。紫煙に乗じて緩慢に全身を巡る虚脱感が気怠さを誘い、遅効性の毒のように体を内側から蝕んでいく。
くしゃりと乾いた音に目を向ければ、先刻の薔薇の再現のように手の中で煙草の箱が潰れていた。知らず握力がこもっていたらしい。
「はっ」
自嘲の笑みに片頬歪む。
この場に他者がいれば泣き笑いに似ていると評したかもしれない、酷く滑稽な笑み。
悪趣味な柄シャツをはだけてさらに悪趣味な胸板の刺青を露出した男、薔薇園に憩いにきた善男善女に敬遠され孤立する軽薄な見目の若者が、俯き加減の顔をくしゃりと歪めたほんの一瞬、途方に暮れた素顔を垣間見せる。
力加減を誤り大事な蝶を握り潰してしまった幼子のように。
巣にかかった獲物を取り逃した蜘蛛のように。
舌打ちひとつ、手の中で潰れた煙草を力一杯地面に投げつける。
煙草の箱は一回跳ねて、それきり沈黙し、薔薇の花弁を散り敷いた地面に横たわる。
足元に転がる箱を見下ろすうちに急速に頭が冷えていく。
「……なにやってんだ。もったいねえ」
こちとら日々食い繋ぐだけで精一杯のケチな情報屋、煙草だってただじゃないのだ。
体はニコチンでできている。
仮に肺癌で死んだとしても医者の処方薬より余程手軽で即効性のある精神安定剤を手放す理由はない。
中腰の姿勢から煙草を拾い、のろのろと胸ポケットに戻す。
吸殻を拾った時と同じ動作を真似たせいだろうか、それが引き金となり薔薇園に佇む女性の残像が再び脳裏に瞬く。
(母さん)
違う。全然似てない。少なくとも外見上の共通点はない。
わかっていても穏やかではいられない、どうしても比べてしまう、考えてしまう。縺れ絡まった自らの巣に巻き締められて窒息する蜘蛛のように、思考が乱れてぐるぐると一箇所を巡る。
あの婆さんはシアワセそうだった。
少なくとも俺にはそう見えた。
子供は授からなかったけど旦那に遺された薔薇園をちゃんと守って、薔薇は自分の子供だと言って、充実した余生を過ごしてるじゃないか。
同じ寝子島出身の日本人女性で外国人と結ばれたのにどうしてこんなにも違う?どこで間違えた?
俺がいたから。俺が生まれたから。俺が女だったら。
『あなたは私とあの人の可愛い娘、可愛い静麗(ジンリー)』
音程の狂った子守唄に似た声が鼓膜の奥に響く。綺麗に澄んだ女性の声、抑揚はむしろ平坦なのにその盲目的な繰り返しが正気と狂気の振れ幅の大きさを予感させる。
硝子質の透明感を宿す声音で、もういない女がくりかえし彼を呼ぶ。
自己暗示。呪詛。それは俺の名前じゃない、俺には名前がない、それは死んだ姉貴の名前、死んだ姉貴の為に用意された名前だ。俺はそのおさがりをもらった。
じゃあ俺は誰だ?
母さんの何だ?
息子じゃない、子供じゃない、俺は……
あの人の鬱憤の捌け口?人形遊びの道具?
『あなたが恐れ嫌悪するものと向き合いなさい』
先日出会った女占い師のアドバイスを思い出し、喉の奥から自然とくぐもった笑いが漏れる。
その拍子に紫煙を深く吸いこんで噎せ、生理的な涙で視界が滲む。
「……無理だろ、常考」
愛を乞うのをやめたのはいつだったか。
煙草を覚える遥か前だったのはたしかだ。
故に蜘蛛は薔薇を食べない。
蝶の翅を齧り飢えを満たす事はできても、薔薇で腹は膨れない。
彼の母親が彼に求めた物が得られず日々心を壊していったように、彼が欲しがる愛は他人で代用できないのだ。
少なくとも、今は。
END
シナリオ「薔薇色の休日」のその後
http://rakkami.com/scenario/reaction/207?p=5