ある恋人繋ぎの日｜リアクション

ある恋人繋ぎの日

「もし、今、他の先生が戻ってきたら……困るよね？」
　ウォルター・Bの耳に届くくらい唇を寄せて、稲積柚春はささやくように問いかける。
「そうだねぇ」
「でも今日は僕らだけじゃないから、いいよね……？」
　外の廊下や窓の下からは、今の２人と同じ状況になったであろう人たちの叫び声が聞こえてきていた。

　なぜこんなことになっているのか、それは１５分ほど前にさかのぼる。
　３年生になった新学期のある放課後、柚春は英語科教諭室を訪れた。アロマオイルの説明文に英語が多いから……というのは本当だが、好きな人の母国語だから、勉強をよりがんばっているのもある。
「ウォルター先生いらっしゃいますか」
「なぁに？」
　教諭室にはウォルターだけがいた。少しの時間かもしれないが、好きな人と２人きりは嬉しい。
「質問と個人授業を、あと……ちょっとお喋りできたら嬉しいなと思って」
「いいよ。じゃあちょっと入ってきて」
　その場にいない先生の椅子を借りて、ウォルターの隣にやや向かい合うようにして座った。

「ちょっと休憩しようか」
「うん、窓開けるね」
　柚春は立ち上がって大きく窓を開けて、部屋の空気を入れ替える。春の澄んだ空気がふわりと部屋に入ってきて、どちらからともなく手を繋いでいた。

「ウォルター先生？」
「柚春？」

　２人の声が重なる。疑問形の２人の言葉、それはどちらも手を繋ぐ行為が意図したものではないことを意味していた。

　そして先ほどの会話に戻る。
「ウォルター先生」
　柚春は、ウォルターの指と自分の指を少し強く絡めて、身体の距離を縮める。
「……今日なら仕方ないかなぁ」
　少し思案して、ウォルターはそう笑いながら返した。
「これなら、どうどうと廊下も歩けちゃうね！　……なんてね」
　冗談を口にして、柚春はウォルターに抱きつく。窓はカーテンがゆるやかに揺れていて、２人の姿が外から見えることはない。
「不思議な現象は長く続くかな、あっという間かな」
（……しばらくは、治らないフリをして繋いでいたいかも）

　２人はは恋人繋ぎのまま、元の通り椅子に座った。片手が使えないけれど、勉強は続けられる。
「ウォルター先生が嫌なら、何か方法を探してみるけど」
（僕はワットだけじゃなくウォルター先生としても好きだから）
　柚春はウォルターの頬にキスをした。
　離れるついでに恋人繋ぎになった手も離そうとするが、不思議な力はまだ働いていて、絡めた指さえ緩みそうにない。
「いいよ、このままで」
「だったら、嬉しいな」
　外の喧騒は未だ収まらず、この不思議な時間はまだ続くようだ。
「卒業しないとできないことも多いけど、卒業したらできないこともあるでしょ？」
　柚春は恋人繋ぎになった手を見て、ウォルターの顔を見つめる。
「こうして学校でこっそり何かすることとか」
「そうだねぇ」
「だからね、この１年でドキドキした思い出もたくさん作りたいな……ダメ？」

　ウォルターが返事のために口を開いたそのとき、外からわあっと歓声が上がった。
　廊下の向こう、外に耳を澄ませてみる。繋いだ手が離れて安堵する声や、まだ離れないで困っている声が聞こえる。人によって、手が離れるまでの時間が違うようだ。
　柚春は慌てて自分たちの手を見る。力を抜いても離れなかった手が、するりと緩む。そんな気がした。
（こんなにはやくこの時間が終わるなんて嫌だよ）
　治らないふりをしようと思ったが、手に力を入れ直す前に、ウォルターが柚春の手を握り返す。恋人繋ぎ、その形のままに。

「今日はドキドキした思い出、作るんでしょ？」
「うん……！」
「じゃあもう少し、誰かが帰って来るまでこのままでいよっかぁ」

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