あ。蕎麦食べよう｜リアクション

あ。蕎麦食べよう

　引っ越しといえば蕎麦である。引っ越し、年越しの蕎麦は江戸時代から続く日本人の慣習であり切っても切れないものだ。かつては薄壁一枚に仕切られた長屋で共同生活を送るにあたり、町人同士が円滑な人間関係を築くため贈り合ったのが始まりと言われているが、風習としては廃れつつありながらも日本の精神としては今も息づき、礼節を表す手段のひとつではあろう。
「日本ではお蕎麦って縁起物なんですよ」
　つまり現代の日本人、稲積柚春が英国人に嫁ぐにあたり、彼とそのメイドを日本食でもてなそうという心意気であった。
「細く長く、と言いますものね」
「そうそう！　健康長寿、家運長命を祈って隣人に蕎麦を贈ったんです。一緒に暮らすことになるから、意味合いはちょっと違うかもしれないけど」
「いいえ。柚春様のお心遣い、痛み入りますわ」
　メアリ・エヴァンズは生粋のイギリス人ながら勉強熱心で柔軟、郷に入っては郷に従うタイプだしなにしろ来日してから十五年以上を過ごしている。日本文化にも日本食にも明るく、蕎麦も好きだという。
　一方、柚春の旦那となったブラックウッド家の主人ウォルター・Bはというと。
「さーて、今日は何を食べようかなぁ。大海老いっちゃおうか。鴨せいろもいいなぁ。たまにはにしん蕎麦なんてのもアリ？」
　イギリス紳士にしてはいささか俗っぽいところのある彼、メアリ以上に市井に馴染みまくっていた。蕎麦は大好物だそうだ。
　そんな二人を蕎麦でもてなすにあたり柚春はひとつ首をひねる。
「さて、どこのお店に行こうかな。ふたりならこの、蕎麦カフェ……」
「『Domani（ドマーニ）』だねぇ」
「そうそう、ここなんかも良さそうだけど」
　蕎麦店としては変わり種、元イタリアンシェフが営むという店を推してみるがふたりはふむ、と考え込んだ。
「へぇ、ちょっと面白そうだねぇ」
「こちらにいたしますか？」
「惹かれるものがあるけど、今日の気分はもう少し、こう」
「和の心を大切にされたいと」
「そうそんな感じ」
　阿吽の呼吸、ツマとしてもかくあるべしと柚春はうなずく。
「それじゃあ……あっちの、蕎麦処『喜悠庵』は？」
「異議なーし」
　ランチメニューを豊富に取り揃えるという比較的新しい蕎麦店を訪れることとした。

「もちろん、Ｂｏｐも一緒だよ」

　昨年の冬に脱サラしてこの店を始めたという夫婦はしかし、その割に中々手際よく注文をこなしている。一見蕎麦店に見えない洋風でモダンな店内は明るく、気さくな夫婦の人柄も相まって何やらカフェかケーキ屋にでもやってきたかのような趣だ。
　柚春らもわくわくと期待に胸膨らませながら席へ着く。程なくやってきた夫婦の奥さんが注文を取り、程なくして品が届いた。
「わぁ、美味しそう」
　柚春は無難にざるを頼んでみた。麺が黒っぽく無骨で野趣溢れる、蕎麦殻をつけたまま製粉した蕎麦粉を使う田舎蕎麦だ。店構えから白くすっきりとした更科蕎麦が出てくるかと勝手に思っていたが、少し意外だ。ちゅるりとひと口、濃い目で出汁の香るつゆにつけてすすると、得もいわれぬのど越しに噛み応えはこれぞ蕎麦、と誰にも言わしめるだろう逸品だった。
「うーん、美味しい！　このお店は当たりだね～。ふたりの頼んだのはどう？」
「わたくしは月見蕎麦を」
「僕は鴨せいろだよぉ」
　英国人二名は器用に箸を使って食べているから、周りの客も少し驚いていたりした。
「……二人とも、普通に麺をすするんですね」
「ああ。そうですね」
　海外の観光客が日本を訪れると、麺類をすする音に驚いたり不快に感じたりするものだという。メアリやウォルターも食文化の違いにはギャップを覚えたものだというが、これもまた郷に入っては郷に従え、だ。すぐに慣れたそうである。
　ウォルターは冷たい蕎麦を熱いつゆでいただく鴨せいろを美味そうにすすり、メアリは月見蕎麦の卵を途中まで崩さずに食べ、最後にくずして蕎麦と絡めて食べていた。柚春が気を遣うまでもなく、二人はこれ以上になく蕎麦を楽しんでいた。柚春はほっとして蕎麦を香り高い出汁へ浸し、心おきなくすすった。

　今回は柚春が会計を持ったがその際にふと、レジ横にそれを見かけた。
「あっ。蕎麦菓子があるんだ」
「蕎麦菓子？」
　ひょいとウォルターが横合いから興味深げに覗き込む。
　蕎麦粉を使った餅やかりんとうなどが並んでいた。なるほど、美味な蕎麦をいただいた後は蕎麦菓子を茶請けに一服というのもいいかもしれない。
「買っていこっか♪」
「蕎麦菓子でアフタヌーンティーか。いいねぇ」
　柚春はウォルターの腕を抱き込み身を寄せる。笑顔に満ちて仲睦まじい新婚カップルに、後ろに控えるメイドも店主夫婦と顔を見合わせ微笑んでいた。

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