Heart in Motion｜リアクション

Heart in Motion

　劇場を出ても空は明るく、先日買った万年筆インクの、すうっと引きのばした先のような色をしている。
　そろそろ七時なのに暑い。
　ほとんど初夏だなとぼんやり思って、ようやく彰尋は我にかえった。
　兄とは、どんな別れの言葉を交わしたのか記憶していない。閉幕後、感想を口にすることすらおこがましい気がして、視線すらほとんど合わせないまま逃げるようにして解散したのだった。おそらく兄も、おなじ気持ちだったと思う。
　圧倒的な舞台だった。
　父に対する恐れはあれども、やはり、すばらしい演技を見ることができてよかったと思う。
　客席にいた自分と兄に、父は気がついただろうか。
　気がつかなかったのではないか。あの集中ぶりは、他に注意をむける余裕があったようには見えなかった。
　父は、登場した瞬間から彰尋を舞台に引きこんだ。つま先の運びかたひとつとっても、役柄が憑依した、いや、役と一体化したすさまじい情念をぶつけ、こちらを呑みこんできたのだ。
　能楽の舞台は多弁ではない。しかし伝える情報量は海のようだ。彰尋は一度となく、押しよせてくる怨念、濃い感情の波濤に窒息しそうになったのだった。
　――幼いころ、何回も味わったな。この感じ。
　いまでは遠い日々、彰尋は毎日のように父の舞台を観るよう強いられた時期がある。当時は筋書きも何も理解できなかったが、核にあるものは肌感覚で会得していた。
　完成された演技、完成された芸術、伝統を受け継ぎ伝えるものとしての義務感あるいは矜恃（きょうじ）――当時は言語化できなかったものが、今日の父の舞台にも寸分変わりなく存在していることを知った。
　師からの教えを、伝統的な技術を、継承し次代へとわたす完璧な人……それがあの人なのだろう。
　たとえ、親や夫としては最低であったとしても。
　靱（つよ）い人間だと、あらためて思う。
　おそらく父は誰のことも必要としていない。必要ではないのだ。絶対的な自負があるから。
　兄や俺に継いでほしい気持ちはまだあるのかもしれない。でも、なかば以上あきらめているだろうし、そもそもそこまで血を信じてはいないだろう。あの人は自分の芸、能楽が残ればそれでいいんだ。
　胸のつかえがおりた。パズルのピースがあるべき位置に収まった気分だ。
　同時に、理解してしまった。
　ひとつの夢がに終わったのだと。
　父と同じ舞台に立つという夢だ。幼いころに彰尋が漠然といだいていたものは、もう決して実現するまい。青いチョークで黒板に書き殴ったイラストのように、もともと朧気（おぼろげ）だったものがほんのひとこすりとともに消失した。
　父親に畏敬の念をいだいていないとはいえない。むしろ、今日の舞台を観てその念は強まったくらいだ。
　だけど。
　俺は彼とはちがう。
　絶対的な、結論だ。
　父の演技を眺めながら俺が考えていたことはきっと、父の考えとは正反対のものだろう。
　知られたら怒られるかもな。
　だって俺は、演技を少し変えたらもっといい表現になるんじゃないかな、なんて考えていたんだから。
　変わらぬものを望む父と、変化を望む俺。
　うぬぼれかもしれないけれど、いまの自分なら父の求めるものに応えられるかもしれない。
　――けれど、それは俺が望む在りかたじゃない。
　空を見上げる。街の灯にさらされた夜空でも、金剛石の粒のような恒星が見えた。針のような光だ。
　いまの夢に躓いたとき、古い夢を思いだして後悔するような、未練がましい人間にはなりたくない。
　足元は固まった。しっかりと。
　駆け足でいこう。進路を決めたあおいさんに置いていかれないように。

　進路調査票、もう迷うことなく書ける。
　役者になるために、色んなことを学んでいく進路を。

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