「彼女」は、薄れゆく意識の中空を見上げた。
水の中から見る空はとても美しかったが、それ以上に悲しくて苦しかった。
――大切な家族の元に帰りたい。
「彼女」は、ゆっくりと手を伸ばす。
けれども、その手は水をかく事なく沈み、遂にはぴくりとも動かなくなった
そして、「イキモノ」から「モノ」へとなった「彼女」に、一粒の小さな光が落ちた……。
――とある夜、旧市街。
牛瀬 巧は妻のいおりと共に、キッチンでラジオを聞きながら他愛のない会話を楽しんでいた。毎日の日課で、お茶を飲みながらこうするのが、巧はとても大好きだった。
その日の夜も、夫婦水いらずでその日の出来事を話し、休日はどうしようか、などの計画も立てていた。
ラジオからはニュースが流れる。それは行方不明者の話をしていた。なんでも一週間前から一人の女性がエノコロ岬付近で姿をくらましたという。その話を聞き、2人はその女性が心配になった。
ところが、午後10時になった所でいおりが席を立った。彼女はどこか遠くを見るような目で、辺りを見渡す。
「? どないしたん?」
「巧さんには聞こえへんの? なんか、歌が聞こえてくるんよ」
いおりは首をかしげ、聞こえてくる方向を探る。そして、何を思ったのか、彼女は迷う事なく玄関へと行ってしまう。
「ちょ、いおり! どこ行くん?」
嫌な予感がし、巧が追いかける。しかしいおりは夫の声が聞こえていないのか、裸足のまま玄関の鍵を開けて外へ出て行ってしまった。
「……一体何があったんやろ……? 追いかけるしかあらへんな」
巧は丁度起きてきた長男坊に他の子供達の事と戸締りを任せ、出て行ってしまったいおりを追いかけるのだった。
(な、なんや、これ!)
外に出、妻を追いかけているうちに巧は幾人もの女性がある場所に向かっているのを見た。速度はそんなに早くはない。けれども、声をかけても、揺さぶっても、妻は歩みをやめないのだ。まるで何かに操られているようだ。
その道の途中に見かけた標識などから、巧は妻達がエノコロ岬へと向かっているらしい、という事がわかった。
「いおり、しっかりしぃ! いおり!!」
「!?」
肩を叩き、少し強めに揺さぶるとようやくいおりは我に返った。彼女は不思議そうな顔で巧を見上げる。
「あ、巧さん……?」
「一体どうしたんや。いきなり飛び出してどこへ行くつもりやったんか?」
心配そうに問いかける巧に、いおりはまたどこかぼんやりとした目で
「だから、歌が聞こえるんよ。歌が、うちを呼んではるの……」
その言葉に、巧は眉を顰めながらもいおりの手を握る。そうでもしなければ、いおりがそのまま岬へ行ってしまいそうで、とても不安だったからだ。
「巧さん、うち、行かんと。誰かが呼んどるんよ」
「せやから、誰が呼んどるん?」
いおりは落ち着かない様子で辺りを見渡し、巧は首を傾げる。彼には、その『歌』が聞こえないのだ。しかし、こうしているわけにも行かない。いおりがまた岬へ向かってしまうかもしれないし、ちらほら見かけた寝子高の生徒や知人達も気がかりだ。
(もしかしたら……これも神魂ちゅうもんの所為なんやろうか?)
そう、考えていると、生ぬるい潮風があたりに強く吹いた。空を見上げると、先程まで輝いた星や月が、雲に隠れている。ラジオでは、あすの昼ごろまで晴れると言っていた筈だが……。
「まるで嵐の前みたいやな……」
巧はぽつりと呟いた。
その少し前。
日光瀬 きららは図書館から借りてきたギリシャ神話の本を読みながら、何時ものように自分の行動をねこったーにあげていた。
(ギリシャ神話って奥が深いですね。明日はもっと調べてみましょう!)
そんな事を考えていると、彼女の耳にふと綺麗な歌声が聞こえてきた。最初は気のせいかと思っていたが、その優しい調べは徐々にきららの脳裏へと広がっていく。
(これは、一体どういう事でしょう? わたくしの体が勝手に動き出しています!)
きららはどこかぼんやりとした気持ちになりながらも、手早くねこったーにこんな書き込みをする。
――海の方向から歌声が聞こえます。どうやら『私を探して』と言っているようです。
それにしても海からの歌だなんて素敵です!
ギリシャ神話に登場するセイレーンでもいるのでしょうか?
きららはそれだけ打ち込むと、ふらふらと海の方へと歩き始めた。
果たして、誰が彼女たちを呼んでいるのだろうか……?
菊華です。
今回は少し不思議なお話と相成りました。
補足
全ての女性に『歌』が聞こえる訳ではなく、【歌い手と波長があった女性】だけに『歌』が聞こえているようです。
但し、参加されたPCはプロフィールの性別が『女性』となっている場合、問答無用で、【歌い手と波長があった女性】として『歌に惹かれている』状態からのスタートとなります。
どうにかして自力で我に返るか、助けてもらうかしてください。
解除方法は男性との接触です。
しかし、軽いモノだと効果は弱く、再び『歌に惹かれる』事もあります。
シナリオガイドを参考にしてください。
牛瀬 いおりについて
牛瀬先生の奥さんで、小柄で童顔です。牛瀬先生と並ぶと15歳ぐらい若く見えます(蛇足ですがいおりは巧より年下で、37歳です)。現在は夫婦で手をつないでいる状態なので正常ですが……。
リアクションスタート時について
牛瀬夫妻は協力して声かけ等をしつつ原因を探ろうとします。
その他、日光瀬 きららさんが岬へやってきています。
(なお、ガイドに登場していない女性NPCは歌の影響を受けておりません)
このまま行くと海に向かう急な階段を降り、非常に足場の悪い場所へ行きかねません。元々ゴツゴツした岩場で足元が悪い上、夜なのでとても危険です。その他、海も少し荒れはじめているのでそこ辺りに向かう前に助けてください。
PL情報
リアクションは午後10時30分ぐらいからスタートします。
30分後には潮が満ち始めますのでどんどん水かさが増えていきます。
また『歌』が原因で嵐が呼び寄せられています。時間の経過とともに雨が降りだし、エノコロ岬周辺の天候が荒れていきます。
それでは、よろしくお願いします。