「…………」
肩から提げた鞄がひどく重い気がして、片手で位置を直す。
眼鏡の鏡面に映りこんでいるのは、古い不動産屋のガラス戸にぺたぺたと貼りだされたいくつもの物件情報。
「…………」
駅の近くや寝子島街道沿い、学校に近い物件はやはり家賃があがる。
星ヶ丘のようなリゾート向けに開発されたエリアは言うまでもない。
物件情報をひとつ確かめては眉をひそめ、ひとつ確かめては頬を強張らせ、またひとつ確かめては難しい顔をする。
情報ばかりの味気ない文字を辿ることに倦み、
神代 千早は不動産屋の玄関口から寝子島街道の向こうに見える春の海へと視線を逸らした。
菜の花に蒲公英、寒緋桜。椿花がすべて落ちる頃には雪柳が真白に咲き、染井吉野が薄紅にこの島を飾り立てる。
(……もうすぐ)
あの居心地の良い猫鳴館を出なくてはならない。
壁が薄く隣人どころかそのまた隣人の寝言さえ筒抜けで、廊下には歴代の住人が残していった芸術品ともガラクタともわからないものが散乱していて、共用の冷蔵庫はいつだって温くて、エアコンなんて夢のまた夢で、──そのくせ、なんだか妙に住みやすかった。公式には学校の寮だと認められていない猫鳴館の住人は誰もかれもが好き勝手に暮らしていて、だからこそそんなに干渉してはこなかった。そのくせ誰かしらが何かしら心配していたり企んでいたり、共用の台所に自由に飲み食いしていいものが置かれていたり。
「…………」
卒業してしまえば、あの場所にはいられなくなる。
あの場所にいた時間の間、ずっと作り続けて部屋に置きっぱなしにしていたたくさんの作品もどうにかしなくてはならない。そう思えば思うほど、身体が地面に沈み込んでしまうような気持ちになった。
重い息を吐く。
(ふたりは、……)
木天蓼大学への進学が決まり、両親と話し合いをした。
条件に合う物件を見つけることが出来れば、引き続き寝子島に暮らして構わないとの言は得た。けれど、そうでなければ自宅から通学しなければならない。そう約束を交わしている。
家賃としての仕送りは、寝子島の平均的な家賃よりも少し少ない。
今まではほんの少しの寮費しかかかっておらず、大学に進むための費用も出してもらっている。十分甘えた条件であるのは承知している。
(一緒に暮らしたい、んだよな)
親の本音は、理解している。
あるいは、社会に出る前に色々な経験をさせようという考えなのかもしれない。
もう一度、物件情報に視線を戻す。
(……そうでなくても他人と話す事なんて苦手なのに)
眼鏡越しの視線がはたと止まった。他の情報に隠れるようにして、妙に家賃の安い物件がある。
(とりあえず、聞いてみようか)
物件情報用紙の隅に記された『ネコジマ不動産』の文字を辿る。硝子戸の向こう、古びたカウンターの奥で何をするでもなく座っていた眼鏡の店員と目があって、反射的に瞬きを繰り返して視線をそっと逸らす。息をひとつ吐いて、硝子戸に手を掛ける。
とにもかくにも、猫鳴館を出なくてはならない日が迫っている──
波が寄せる音を耳にした途端、重い気持ちが身体に圧し掛かって立っているのも辛くなった。目についた流木に座り込む。流木の上に誰かが乗せたらしい小さな巻貝をなんとなく手に取り、ほとんど癖のようにポケットにしまう。
不動産屋で貰ってきた物件情報紙を溜息まじりに鞄から取り出したとき、強い春風が背中を叩いた。それだけでなく、手元から用紙を奪って行く。
「っ……」
砂浜を転がり、波に乗って流れる紙を追いかけようと立ち上がりかけた足が止まる。取り戻して、情報を詳しく調べなくてはならないのに──
と、春のまだ冷たい海に、白い手がひょいと突き出した。かと思えば、波の色よりも蒼い髪した少年がぽかりと浮かび上がる。
緩く寄せる波をざぶざぶと分けて海から上がってきた少年は、流木の傍に茫然と立つ千早に向けて人懐こい笑顔を向けた。
「チハヤ!」
おーい、と大きく振る手には、風と波にさらわれたはずの物件情報用紙がぎゅっと握られている。
夏の盛りに海の底で会ったときには白い貫頭衣姿だった少年は、今日は寝子島のあちこちで見る男子小学生のような半ズボン姿。水底に暮らす不思議の少年──ユニは、瞬きの内に身体にまとわりついた水気を払い、跳ねるような足取りで駆け寄ってきた。
「チハヤ、遊ぼう! おれ、ねこでん乗ってみたい! あとこれチハヤの?」
こんにちは!
大変お待たせいたしました、プライベートシナリオのお届けにあがりました。
神代千早さん、前回に引き続き、ご指名ありがとうございます。ユニ少年ともまた遊んでくださるとのこと、とても嬉しいです。
ということで、春のワケ有り物件巡りと参りましょうー!
ネコジマ不動産にて、低家賃をお求めならこの辺り! とばかりにワケ有り物件を色々と紹介されております。いくつかご用意いたしましたので、お好みの物件がありましたらユニ少年と一緒に内見へ向かってみるのも楽しそうです。
もちろん、折角のプライベートシナリオです、神代さんのお好きに設定された物件もよろしければお教えください!
●星ヶ丘のねこやしき
〇星ヶ丘の植物園『ねこの庭』管理物件
・園内カフェ『Oz』の店員が管理人代理として内見に立ち会います
・平屋洋館、屋根裏部屋あり。
・築五年
・地域猫の溜まり場となっており、賃貸条件として猫たちの世話が必要となっています。必要品の代金は『ねこの庭』から支払われます。
・日によっては『Oz』のまかないが差し入れられたりも。
・付き添いユニ 「ねこ! ねこだ、チハヤ! ねこがいっぱいいる!」
●寝子島駅沿線ぼろアパート
〇ねこでんと海が見える二階建てアパートの角部屋
・築三十年
・住人たちの間で、幽霊が出たとの噂が広まっている様子です。(「外階段でびしょ濡れのこどもの幽霊を見たんだ……」「水をくれとねだられて、恐々言う通りにしたら小さい蒼い蛇になって逃げて行ったんだ、確かに見たんだ!」)
・付き添いユニ 「……(気まずそうに目を逸らしている)」
●シーサイドタウンの元家具工場
〇二階建ての元工場
・築五十年、あちこちに改修・増築跡があります。元々は土蔵だったようです。
・二階部分は居住用に改装済。ロフト、システムキッチン、バストイレつき。
・一階部分は古い家具の物置状態。階段箪笥や棺桶じみた櫃、使われなかった漆塗りの金具や飾り珠等々、ガラクタとも宝物とも呼べないさまざまのものが転がっています。大変古びています。
・家主に片付ける意志はなく、好きに使ってくれて構わないとのこと。一階部分の改装も可能。
・付き添いユニ「なんか一階で声がする、見てくる!」
どの物件も目を瞠る低家賃ですので、その点はどうぞご安心(?)ください。
神代さんがお越しくださるのを、心より楽しみにお待ちしております!