初め、夜の底に居るのかと思った。
もたげた瞼に冷たい水が触れる。瞬いて、瞠って、また瞬いて、
志鷹 若菜は知らず詰めていた息を吐き出した。胸を膨らませていた空気は唇から零れ落ちた途端、透明な泡となる。頬に触れ、額に触れ、泡は宙を――否、青く碧い水中を舞い上がっていく。
空へ立ち昇って行く煙のような泡を追って腕を上げる。服の袖が水に揺らぐ。指先を水の抵抗が掴む。
動いていなければ凍えるほどに思えた水の冷たさは、けれど動いてしまえばいっそのこと温かかった。
視界にゆらゆらと踊る自身の黒い髪を片手に抑え、視線を上げる。空よりも高く遠い水面には、紅い光が波のかたちして漂っていた。
「此処は……」
呟いた声が、水中にあって水中にないように、はっきりと周囲に響く。
「――此処は」
己を包む水の感覚に、覚えがあった。
厳冬のあの日、水たまりの底に見た、不思議な水底の町。
呼吸の叶う不思議な青い水底の、白珊瑚で出来た白い町には、けれど人が居なかった。緩やかな丘陵に沿って連なる静寂の町に居たのは、触れること叶わぬ色とりどりの幻の魚たちと、それから――
「ユニ君! お爺さま!」
以前迷い込んだ折に出会ったふたりを呼び、若菜は水に漂う体に力を籠める。白い着物纏った水より蒼い色の髪した少年と、仙人のような白銀鬚の老翁を探すべく、手足に水をかく。仰向けに沈んで行くままだった体勢を立て直す。
青い水の半ばから、白砂に占められた水底を見下ろす。
少年の名を呼ぼうとして、声を呑む。
白珊瑚を積み上げた家々のあちこち、家々の隙間を縫うような細い路地や階段のあちこち、蜘蛛糸じみて縦横に家々を過る渡り廊下のあちこち、
「人が……」
以前に見た色とりどりの魚ではなく、色とりどりの着物を纏ったたくさんの人々が往来している。
道の端々には林檎や蜜柑や苺の色した花々が咲き乱れ、耳を澄ませば町を行く人々が楽し気に笑いさざめく声が聞こえる。花に囲まれた広場では見慣れぬ民芸品や花細工の露店が並び、石段に囲まれた舞台では伸びやかな声で歌う歌姫に惜しみない喝采が送られている。
「此処、は……?」
白い砂に覆われた石畳の上に爪先をつければ、水底にあって水底にないかの如くフツウに歩むことができるようになった。
「ユニ君、」
石畳の路を行く人々を見遣る。道の果て、町の央であり丘の天辺の神殿に続く長い石段を見遣る。町には人々が溢れているというのに、神殿に続く石段にだけ、扉を固く閉ざした神殿にだけ、人の姿はない。
「お爺さま……?」
ざわめきの中にあるはずなのにひどく静かにも思える町の真中、若菜は立ち尽くす――
こんにちは。阿瀬 春と申します。
今日は、水底の町へのお誘いにあがりました。
ちょっと不穏な空気感もあるようなないような感じではあるのですが、町で遊んだりお散歩したりする分には何にも危険はありません。
(寝子島は春真っ盛りではあるのですが、)まだまだ暑い日が続いておりますし、涼しい水中散歩と洒落こんでみませんか。
ガイドには、志鷹 若菜さんにご登場いただきました。ありがとうございます!
もしご参加頂けますときは、ガイドに関わらず、ご自由にアクションをお書きください。
春の宵 ふと目を覚ませば 水の中
そんな感じのお話となっております。夢と思って水中散歩をお楽しみいただくもよし、見慣れない町を探索するもよし、です。
道端に転がっているもの(きれいな貝殻や読めない文字の本や日記らしいもの、古びたインク壺や羽ペン、指輪や装飾品等)は、ひとつふたつであれば寝子島に持ち帰ることができます。不思議な力はありませんが、水底の町を訪れた記念品くらいにはなる、かもしれません。
お散歩場所的なところも少しご用意いたしました。良さげな場所がありましたら覗いてみてください。
■花冠広場
町を貫いて昇って行く石段の右側には、『花冠広場』と名付けられた広場があります。見慣れない食べ物や民芸品の露店の品物を求めて、町の人々が大勢行き交っています。
■星空舞台
町の左側には、『星空舞台』と名付けられた円形舞台があります。
段状の客席に囲まれた舞台では、今しも歌姫が異国の言葉で歌を披露中。舞台袖の舞台主に言えば、あなたを見慣れぬ異国の旅芸人あたりと見なし、容易く舞台に立たせてくれます。
■神殿
町を守護する巨獣が居るという、白い石でできた巨大神殿。緩やかな丘にできた町の天辺にあります。長い石段を登って行かなくてはなりません。
町の人々は誰一人として神殿に近づこうとはしていません。
もし神殿に行ったとすれば、以前水底の町にふたりきりで居たはずの『ユニ』という少年と、『アレス』という老翁に会うことができる、かもしれません。
■その他
町の入り口に位置する門番小屋には、本を読んだり報告書を書いたりしている壮年の門番がいます。退屈そうですが、町の外に出ようとすれば断固として引き止められて叱られてしまいます。
水の上に出ようとしてもものすごい勢いで止められます。死にたいのか、とさえ言われてしまいます。
一応、去年の夏に書かせて頂きました『水底の町』と関わりのある物語となっております。続編の体裁も取らせて頂いておりますが、前作は読まなくても大丈夫なつくりにはなっております。ですので、ご新規さんもどうぞお気軽にご参加くださいー!