そろそろ日中は暑くなってきたので、お昼寝はもっぱら本殿の縁からもぐった床下、ひんやりさらさらの地面ですごすことにしている。　
　九夜山中、存在を忘れられた神社だ。荒れ果てて訪れる者もなく、鳥居はかたむき境内は草ぼうぼう、拝殿の障子も残っていないというありさまなのだが、ここだけは奇跡的に清浄で静謐でもあって、きめ細かな玉砂利までしつらえられており、休息をとるには大変結構なスポットなのだ。
　……ときおりアリが耳に入ってくることをのぞけば。
　人差し指を左耳にさしいれ、闖入者に立ち退きを願う。
　以前、跳ね起きて額をしたたかにぶつけたことがあるので寝起きは慎重に。まずは反転して伏せの姿勢、そこからよじよじとを身をよじらせ匍匐（ほふく）前進、端までたどりつくとフェレットのようにするりと、アリス・トテレスは床下から這いだした。
　のっそりと立ち上がる。ふあぁと大あくびして伸びをする。
　ボサボサの頭はコントの爆発後ヘア風だ。バリバリと掻くと砂利が払い落ちた。
　アリスは菫色の瞳を細めた。ブラッドオレンジそっくりの太陽が西空に沈もうとしているのが見える。
　もう一度あくびが出た。目尻を掌底でぬぐう。
「爽やかな夕方の目覚めナノデス」
　ぽつりとつぶやいた。そろそろ行動を開始しよう。
　狩りの、時間ナノデス。
　山中の野生動物や、ましてや山に迷い込んだ通行人を襲うなどという物騒な話ではない。もっとずっと穏当で平和的でなんならエコロジカルであったりする。
　といっても注目を浴びるのはまずい。山を下りると身を隠すようにしながら、アリスは旧市街の町並みをゆく。物陰があれば物陰に入り、目抜き通りではなく裏通りだけチョイスするようにしながら。
　見えた。目指す店が。
　あそこのパンの耳は絶品ナノデス。
　想像するだけで腹の虫が重奏コーラスを唄い口中につばがたまるような気がする。夕食調達は大切、お金をかけないでできるのであればなおさらだ。
　コンクリート壁にぴったりと背をあずけ、息を殺してベーカリーへと近づく。間に合った。そろそろ閉店時間らしい。
　路地裏で待機する。もちろん息を殺して。
　アリスが狙うのはパン屋そのものではなくそのゴミ箱だ。売れなかったパンがダストシュートされるのを見計らい、可能ならば袋まるごと、最低でも一食分はハントするのである。何度かタイミングを逃し、到着したときにはすでに回収後だったことがことがある。人目があって近づけなかったこともある。
　目撃されるのは避けたいノデス……。
　とりわけポリスには。
　複雑な事情があって戸籍はおろか、国籍不明でパスポートも不所持、身分証明する手段を一切合切もたないアリスなのである。当然官憲に捕まればただではすむまい。一度入ったら二度と出られぬといわれる『ニューカン』なる牢獄に放り込まれるというのは想像にかたくない。
　それにしても。
　遅いデス。
　固唾を呑んで見守っていたアリスだが、肩に力がこもっていたのは短い時間のことだった。やがてうつらうつらするはめになる。動きがなさすぎて退屈してきたのだった。いつになってもゴミ箱が出てくる様子がないからだ。
「……まだデスカー？　いつまで待たせマスカー？」
　ぶつぶつとつぶやくアリスの背後から、
「なに待ってるね？」
　女性の声で問いかけがあった。
　うざったいとばかりに振り向くことすらせず、しっしっ、とアリスは追い払うような手ぶりを示す。
「……誰デスカ？　ごちそう狙いの張り込みを邪魔するんじゃないのデスヨ」
「ごちそう狙い？」
「こんな場所でか？」
　声は二種類あるようだ。もうひとつも女。ふたりが顔を見合わせているところが想像できた。
　……って、
　ようやくここでアリスは我に返った。
　見　つ　か　っ　た　！　？
　逃げなきゃ、と走り出そうとするも栄養失調の哀しさ、足をもつれさせ倒れかかけたが。
「大丈夫か？」
　……腕つかまれた！？
　結果的にはそういうことになる。アリスはとっさに細い手につかまれ、転倒をまぬがれたのだった。ゼンマイ細工のブリキ人形みたいにバタバタしてみるが無意味だった。
「そちは誰じゃ？」
　やけに時代がかった口調だがアリスはさほど違和感をいだかない。なぜってアリス自身、現代日本語にはいささか難があるから。とっさに叫ぶ。
「あやしいカミサマのミコとかじゃないのデス！」
「怪しい神様？」
　最初の一人が言った。こちらの日本語にも隠しようのないなまりがある。
「ここは神の巫女が馳走を探す場所なのかえ？」
　もうひとりが言った。やっぱり時代がかっている。
「とにかく離すのデス！　ニューカンは嫌ナノデス！！」
「入管……？」
　なにか思うところがあったらしく、
「とにかく黙ってついてくるよ」
　アリスの襟首をひっつかむようにして最初のひとりが歩き出した。
「四の五の言うでない！」
　もうひとりも同じ意見らしい。
「ニューカンじゃないのデスカ？」
　恐る恐るアリスはふたりを見上げて言った。
「違うよ！」
　怒ったような口調で最初のひとりが言った．スレンダーというのだろうか、すらっとした姿の女性だった。
「いいから黙ってついて参れ」
　もうひとりが言った。アリスよりは背が高いがもうひとりよりはずっと低い。前髪で切りそろえた黒髪が印象的だった。
「ひどい目にあわせるデスカ……！？」
「ひどいという話ならお主が一番ひどいわ。はっきり言うが臭う！」
「ちゃちな汚れじゃないよこれは……洗うよ、まずは」
　洗う→きれいにする→商品価値が出る……！？
「って、やっぱり売り飛ばされるってことデスカーッ！？」
　アリスが投げかけた問いに、恋々（れんれん）も九鬼姫（くきひめ）も答えようとしなかった。

　アリスが放りこまれた場所は入管ではなかった。
　まずは恋々と九鬼姫が暮らすマンションだ。ほぼ問答無用で風呂場に連れて行かれ服を脱がされ、ノミやシラミや泥土を洗い落とされた。
　最初はくすぐったがっていたアリスだが、頭から湯を浴び肌のガサガサやかゆみの原因が流れ落ちていくと気分がよくなり、いつしかデタラメなテンポの鼻歌も出るようになった。
　よく考えてみれば全裸だ。
　すべてを見られてしまったデス……。
　と思ったが、二人がかりで洗う恋々も九鬼姫も同様の体となっていたのでそこはいいことにする。というか、何十日ぶりかわからない入浴の気持ちよさが勝った。
「あんた……ええと、アリスか？　よくあんな状態で平気だったね。信じられんよ」
　と恋々は言って、アリスにタオルを手渡してくれたのだった。
「着替えなんてないじゃろ？　ああ、さっきの『一張羅』は袋に入れて隔離しとるからな。捨てるなとか言うでないぞ」
　九鬼姫のほうは「わらわのを着ろ」と着替えをよこしてくれた。ドレスというものらしい。きれいでスベスベしていて、なんといっても着心地がいい。
　堆積層のようになった汚れを落とし、ちゃんと着替えたアリスは様子を一変させている。すっきりとした目鼻立ち、やや眠そうで深みのある瞳も目立つようになった。ごく簡単ながら自分の境遇を話すと、「そろそろ出勤時間ね」と着替え始めた恋々に呼びかける。
「もしかして……アナタたちはボランティアの人たちデス？」
「そんな立派なもんじゃないね」
「そう、キャバ嬢じゃ」
　と笑って九鬼姫はスプリングコートに手を伸ばす。
「きゃばジョウ？」
　ぷろむなあど、なる店で働く従業員だという話だったが、アリスにはますますわからない話だ。　
「それ……おいしいデスカ？」
　と告げると同時に腹が鳴った。
「どうする？　こやつ、何か食わせてやったほうがいいと思うぞ」
「仕方ない。店に連れてくね。店長ならわかってくれるはずよ。なんというか……放っておけないよ」
　左様じゃな、と九鬼姫はうなずいてアリスに呼びかけた。
「とりあえず来るがいい。安心せよ、取って食ったりはせんわ」
「でも、もうミコとかしなくていいデスネ？　ミコはいやナノデス」
　はははと恋々は笑った。
「そんなのやんなくていいよ、もう一生ね」
「……本当デスカ？」
　ぴょんと飛んでアリスはふたりについて行くことにした。


　――今日から『らっかみ！』　了