つつもすすはらいて｜リアクション

つつもすすはらいて

　神無月ひふみと晴海飛鳥が引き返し、誰もいなくなったはずの落神神社の境内。そこには細身の少年が立っていた。突如山中に現れた怪異に、彼は脅威や憤り以外のものを感じ取ったのだ。まったくの丸腰。手に携えているのは何の変哲もない水や布だけだった。
「君がつつも？」
渦巻く黒髪を足場にして、はるか上空に立つ少女の姿を取った妖怪、つつもはじろりと声の主を見た。その目は冷たく、憎しみに満ちていた。しかし、怖じることなく少年、逆巻天野はつつもに呼びかける。
「どうして、こんなことをしているんだい？」
返事はなかった。代わりに、髪に見慣れぬ古風な櫛をつけた七夜あおいが立ちはだかる。彼女を印象付ける快活な表情はなく、夢遊病者のようにふらふらと上体が動いていた。
「七夜？　そうか、ここにいたんだね。みんなが探し、て」
天野の言葉はそこで途切れる。あおいの腕が思いも寄らぬ速さで伸び、天野の首をつかんだからだ。そのままゆっくりと親指が喉に押し込まれる。
（ああ……苦しい、けど……、こんなことは昔にもあった……）
今、窒息する苦しみはまぎれもない現実なのに、そこから思い出されるのはどこか他人事のように感じられる過去。虐げられていた経験は天野から、抵抗するという選択肢を奪っていた。あおいの手に込める力は、ますます大きくなっていく。
　ふと、もがく天野を見下ろしていたつつもは、何を思ったのか黒髪の砦からするりと降りた。自分の足で歩き、充血した目の天野に近づく。かすむ視界に、美しい少女妖怪の顔がいっぱいになった。
「何が狙いだ」
つつもはさっと手を振る。合図に応えて、あおいは天野の喉から手を離した。自由になった喉が、勝手に空気を求めて大きく息を吸い、ひゅうひゅうと鳴る。天野は咳き込みながらも、ひざをつくまいと必死にバランスを保っていた。
「もう一度聞く。何が狙いだ。お前ごときに私は倒せない」
黒髪の妖怪は再び天野に尋ねた。彼女のそばには従者のように、あおいが無言で控えている。天野は応える代わりに手を伸ばし、つつもに優しく手を重ねた。その手は悲しくなるほどに冷たい。
「何をする！」
「ねぇ……そばにいて、いい、かい？」
重ねた手は乱暴に振り払われる。思いがけない天野の行動に、やはりつつもは怒りで答えた。その姿に天野は確信する。
（君は……本当は怒っているんじゃないんだろう？　怒りで、悲しみや、別な何か……それを隠しているんじゃない？）
その思いを口にすれば、つつもはさらに怒り狂ってしまうだろう。ささくれ立った心の持ち主であることを指摘されるのは、何よりも屈辱的であるはずだから。きっと、つつもは天邪鬼な妖怪だから。力の入らない手を、天野は懸命に伸ばした。絞めつけられた喉からは、声も思うように出ない。
「一人ぼっちは寂しい、よ、ね」
「くだらない。同情するつもりなら殺してやる。そうでなければ……」
つつもの目がらんらんと赤く輝く。対して傍らのあおいの目は心をなくして曇ったままだ。天野は二人を見比べる。つつもは乱暴に、髪を飾っていた絢爛な細工の櫛を抜き取って、天野の長い髪の結び目に突き立てる。
（同情じゃない。僕のエゴがこの結果を呼ぶんだ。いいんだ……これで。僕は、化け物だけど、それ、でも……）
　その思いを最後に、『天野』としての意識は途切れる。櫛を与えられ、つつもの手足となった天野は、『もっとも役に立つ働きをせよ』との命令を受け取ってスプレー缶を取り出した。のろのろと歩き出し、広い境内に生い茂った草を踏み潰しては、つつもとあおいの周りに大きな陣を描いて行く。次第にできあがって行く魔法陣の紋様を見て、つつもは満足そうに邪悪な微笑を浮かべた。
「寂しいものか。私は、憎いだけ。ただひたすらに、憎むだけ」
傷ついた心を知るものだからこそ、あえて敵のもとに降る。身を投げ出して理解を示そうとした天野の心を踏みにじり、少女妖怪はただ笑う。