【お花見】しづ心なく花の散るらむ｜リアクション

【お花見】しづ心なく花の散るらむ

　歯車が噛み合い水晶が震え、長針が短針を追い越すそばで、秒針は我関せずとばかりに一歩一歩、たゆむことなく進み続ける。
　刻まれるのは時、概念にすぎぬその流れを、掬（すく）い取って示すのが時計の役目だ。ローマ数字の尖った縁は、時間の公正さを体現しているように見える。
　手巻きのアナログ時計をペンダントにし、紫の鎖がついた銀製の懐中時計を腰に提げ、髪飾りも歯車を選んだ佐藤瀬莉はまるで時計の国のアリス、桜川沿いの道をのんびりと歩きながら、ふと足を止めたりまた歩き出したり、気ままに午後を過ごしていた。

　ふわっ、と風が吹いた。
　数枚の花びらを乗せた風だ。
　チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ。
　瀬莉は目を閉じる。目を閉じて風を体で受ける。
　チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ。
　そうして懐中時計を耳に当てる。時が刻まれる音を聞く。耳ではなく体感で、心の奥底に響かせるように。
　チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ。
　……桜か、と瀬莉は思った。
　桜って、嫌いだったな……。
　時間は不可逆だと誰かが言った。
　けれど意識は時間を超える。さかのぼることだって、できる。

　チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ。
　
　子供のころ、といってもほんの数年前の話だ。
　当時瀬莉は寝子島にいなかった。東京は六本木の、バベルの塔のようなタワーマンションに住んでいた。
　そしてラプンツェルのように、マンションから出ることなく暮らしていた。
　閉じ込められていたわけではない、幼くして大病を患い、外に出ることができなかったのだ。
　幼少期、瀬莉が過ごした場所は自室か病室であった。一時は死の境を彷徨ったこともある。当然、幼稚園に通うことなど、いくら願えどかなわなかった。
　春先に入院したときは、毎日病室から桜を見た。
　母親が配慮して、窓際にベッドを置いてくれるよう病院にかけあったためである。

　けれども瀬莉は、病室の窓から見る桜の花が嫌いだった。

　あのころ、と現在（いま）の瀬莉は過去（かつて）の自分を回想する。
　同じ自分なのに、なんだか遠くなってしまったような自分を。

　桜には呪わしい想いを抱いていた。
　桜が散ったらきっと自分は死んじゃうのかな、と思えてならなかったからだ。
　これはたまたま春だったからであり、秋なら枯葉が堕ちるのを見て、そう思ったに違いないのだけれど。
　それでも。

　寝子島への転地療養が奏功し、その後瀬莉病状は劇的に回復した。
　それとともに仮面を外すようにして、瀬莉は本来の明るさを取り戻している。
　だが瀬莉は仮面を砕いて捨てたわけではない。そっと懐に忍ばせただけだ。いつでもこれを、また被る用意は出来ている。
　病の仮面は、精巧に作られたデスマスクでもある。
　次に仮面を身につけるとき、すなわち病気が舞い戻るとき、もうこれを外すことはないだろう――そんな確信めいた予感がしている。

　チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ。

　どうして自分がこれほど時計に惹かれるのか、そんなことを瀬莉は考えてみる。
　瀬莉自身はうまく言語化できないものの、おぼろげながら理解はできていた。
　作り手がいなくなっても、その分身たる時計は時を刻見続けるものだから。
　永遠に生きるものだから……。
　
　チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ、チッ。

　目を開く。
　桜の樹がじっと、自分を見下ろしているように瀬莉は思った。
　見下ろしながら桜は、はらはらと花を散らせている。
　時間は止められない。花の美しさをとどめることはできない。
　おそらくは瀬莉も、また――。