「遙さんなんかいい匂いしますねぃ」
「………は?」
鍵盤に添えた手が硬直する。
袖が触れ合う距離に腰掛けた少年…呉井君が興味深そうに小鼻をひくつかせつつ、まじまじと俺の横顔を見てひとりごつ。
「なんていうか……甘い花の匂いというか……樟脳?はちがうか。ひょっとして香水つけてますかぁ?」
指摘されて初めて思い出す。
「ああ」
「へえ、珍しいですねぃ。遙さんは香水とかつけないタイプかと思ってました」
「洒落っけがなくてつまらないとよく言われる」
「あ、いや、悪い意味じゃなくて!そっち系は興味なさそうだな~って俺が勝手に考えてたんですよぅ」
しどろもどろ言い訳しつつおどけて楽譜をめくる。
誤魔化し笑いをはりつけた横顔の愛嬌が微笑ましさと脱力を誘い、年下を困らせるのも大人げないとあっさりネタ晴らしする。
「……墓参りのあとにきたからな」
「時任さんの、ですか」
「ああ」
「あの、聞いていいですか?」
「なんなりと」
「お墓詣りに香水をつけてく人って珍しいと思うんですけど、何か意味があるんですか?たとえば時任さんの贈り物だったり」
「いい線行ってる。……が、残念ながらハズレだ」
じらすようなことでも隠し立てするようなことでもない。
それでも口にするのに一抹の躊躇いを感じてしまうのは何故だろうと自分の心の動きを訝る。
「たいした意味はないが……大学の頃時任に香水のおさがりを貰ったことがあって。鈴蘭の香水だった。このあいだシーサイドタウンの香水店で買ったのも鈴蘭をベースにしたものだから妙に懐かしくてね……それからあいつの墓参りにつけていくことにしてるんだ。俺の職場は強い香りが好まれないからそれ位しか使い道がないし……まあ、手向けみたいなものだ」
「そうだったんですねェ。すいません、立ち入った事聞いちゃって」
申し訳なさそうに首を竦めて詫びる様子に逆にこちらが気を遣う。
「少し離れたほうがいいか」
「えっ、なんでですか?」
「匂いが移ると困るだろう」
「いえいえ、そんなきつくありませんし大丈夫ですよぅ!?ていうかくっつかないとピアノの練習できないし、オレは大丈夫だけど遙さんそこからじゃ楽譜見えないんじゃ」
眼鏡の奥の糸目をさらに下げた困惑の表情にたちの悪い嗜虐心が疼きだす。
「移り香を持って帰ったら彼女が誤解するんじゃないか」
「へっ?」
ぽかんとした顔。
あっけにとられた沈黙の後、快活な笑い声が弾ける。
「やだなぁ、彼女なんかいませんよぅ!香水の匂いぷんぷんさせて帰っても弟にいやな顔されるだけだし…あっでもそれはそれでへこむなぁ……口きいてくれなくても表情にでるんですよねぃ割と露骨に」
「それは嫉妬じゃないか」
「まさか!オレ嫌われてますもん……ああ~……」
「自分で言ってへこむな。面白い」
「遙さん意外と毒舌ですねぃ!?そっちが素ですか!」
本人がいいと言うなら遠慮しなくてもいいだろう。
気を取り直し鍵盤に指を乗せれば、俺の動作に合わせて楽譜の該当ページをめくりながらにこやかに呟く。
飄々と、まるで鼻歌を口ずさむように。
計算と天然が駆け引きするさりげなさで。
「そっか、鈴蘭だったんですねぃこれ……いい香りだ。秋だけど、ここだけ春みたいだ」
(……口説き文句なら上出来だな。使う場所を間違えてるが)
生憎とそれを指摘してやるほどお人好しじゃない。
呉井君は案外キザだ。
終