夢だと自覚しつつ視る夢を明晰夢という。
以前から明晰夢を見る機会は多かった。知人と夢の話をする事など殆どないが、他人と比べたら格段に多いだろうと漠然と予感している。
夢の中でも頭の片隅は常に冷たく冴えていて、自分の一挙手一投足を理性に照らして監視している。
俺は客観的視点から不感症に退屈な心地で自分の行動を観察し、起きた時も細部に至るまで鮮明にその情景を記憶している。
友人が死んでから妙な夢を見る回数が増えた。
悪夢にうなされる夜を一つまた一つ重ねるごとに寝不足は深刻になり、昼の仕事にも支障をきたす始末でいい加減参っている。
残業を切り上げ心身ともに疲れ果てた帰宅した夜。
靴を脱いで殺風景な部屋を横切り、ベッドに倒れ込み、瞼が鉛のように重くなるのを待つ間に念じる。
今日は何も夢を見ないように。誰も出てこないように。あの男と対峙せずにすむように。
無造作に眼鏡を外し、弦を畳んで枕元におく。
服を脱ぐのも億劫で、せめても手探りでボタンを外しシャツの襟元を緩める。
ベッドに仰向け、気怠く微熱を帯びた瞼に手の甲を押しあて冷やす。
今日こそは何も見ないように。
夢など見ず熟睡できるように。死んだように眠れるように。
生温かい泥濘のようなまどろみを浮き沈み揺蕩いつつ、思う。
誰もいず何も聞こえない。
どうせ視るならそんな夢がいい。
限りなく無に近い、意識すら完全に漂白され無に溶け込むような夢がいい。
なんならそのまま死んでしまっても構わない。
厳粛さに包まれた白く静謐な空間。
眼前に鎮座する黒い棺。
エナメルを塗ったような光沢の棺はピアノを模していて、中に骸が横たえられている。
噎せ返るように匂いたつ白百合を敷き詰めた褥に身を横たえているのは、いやというほどよく知る男……早逝した天才ピアニスト、時任彼方。
死者は胸の前で祈りの形に両手を組んでいる。生前は神をも恐れなかった男が、こんなポーズをとらされていることに皮肉を感じる。
俺と死者の他には誰もいない。俺はこれが夢だと自覚している。自覚しているが、主導権は握れない。
棺の傍らに立ち尽くし、友人だった筈の男の死に顔を凝視する。
綺麗で安らかな死に顔。長い睫毛が彫り深い瞼に影を落とす。
光の加減で琥珀を溶かした鳶色にも見える虹彩は永久に隠されて、蝋のように白く冷えた肌からは一切の生気が感じられない。
時任が死んだ。
俺が感じたのは哀しみでもない、喪失感でもない、虚無感でもない…
安堵だった
こいつがいなくなってせいせいする。
やっと死んだ。自由になれた。
もうこれで付き纏われずにすむ、束縛されずにすむ、煩わしい事は何もなくなる。
腐れ縁が切れてせいせいする。
狂喜に似た解放感、狂気に似た愉悦。
その直後、罪悪感と自己嫌悪の波状攻撃に襲われる。
友人の死に際し、その弔いに臨む場で、当の友人の死を喜んでしまった事実にうちのめされる。
俺は手に白百合を持っていた。
自分がすべきことはわかっている。既に時任が眠る棺は白百合に埋め尽くされている。時任を悼む人間がこんなに多いという裏付けだ。だが他の参列者はどこに行ってしまったんだろう?ここには俺一人しかいない、まるで時任がそう望んだかのように……
馬鹿げた考えだ。
緩く首を振り棺に歩み寄る。
時任の顔を見おろし、最後にかけるべき言葉を乾ききった胸の底にさらうも、モノと化した骸に語りかけるなど気色悪いほど自己満足なうえ不合理かつ不毛な行為としか思えず、さっさとこの義務じみた欺瞞の延長線上の儀式を終わらせようと思考を切り替える。
時任が組んだ手の上に白百合を手向けようとした……
刹那。
死体が目を開ける。
手首を握り返される。
上体を起こしのしかかる時任から逃げ遅れ……いや、そもそも逃げるという発想と選択肢自体がなかった。
現実感が酷く薄く―夢の中だから当たり前か―思考が麻痺し、されるがまま異常な状況を受け入れる。
何故だか恐怖心は抜け落ちていた。
罪と罰が対になってるように。
贖うように、雪ぐように、これが自然の帰結に思えた。
なるべくしてそうなった結末なら諦念の内に受け入れるしかない。
足掻かず抗わず、無防備に四肢の力を抜く。
無抵抗に曝した首に高く伸べられた両手が巻き付き、最初は優しく、徐徐に強く指を食いこませ咽喉を締め上げていく。気道を圧迫され息ができない。酸欠に陥り視界が暗む。
窒息の苦痛を耐え凌ぎつつ霞みゆく目を開ければ、時任の顔が眼下にちらつく。
絶望に駆り立てられた顔。
憎しみの坩堝のような瞳。
あんな哀しい目を、俺は知らない。
明け方近く、ベッドの上で息を吹き返す。
服も着替えず泥のように眠ってしまった醜態を反省しつつ咽喉に手をやり、そこに時任の掌の感触を、夢の残滓を求めようとする。
罪悪感を伴う重苦しい自己嫌悪に苛まれ、幻滅に塗れた最低の目覚め。
「……だから夢は見たくないんだ」