初夏の薫風に乗り清涼感に満ちた新緑の匂いが爽やかに広がる五月。
白く清浄な光が注ぐ中、伸び盛りの葉桜の色を眺めながら、綺麗に整備された遊歩道を白衣のポケットに手を突っ込み独り歩く。
向こうからやってくる花束を抱えた老婦人とすれ違い際会釈する。
にこやかな風貌の老婦人を傍らに避けて見送る。彼女の歩み去る方角に目にはペット霊園がある。
星ヶ丘霊園は東西南北の区画に仕切られており、ペット霊園も併設されているため、愛犬や愛猫、その他愛するペットに先立たれた哀しみに沈む来訪者が後を絶たない。好き嫌い以前に興味がなく、動物に特別な感情を持たない俺には、人生の伴侶と恃むペットを喪った人間の気持ちはよくわからない。
愛着と依存はどう違うのか。どうやって線引きをするのか。
もっとも人間だって同じようなものだ。
執行猶予期間と同義のモラトリアムが許されていた人生の一時期、一番濃密な時間を共有した友人が死んだ今も、俺の胸は哀しみに痛むことはなく、情動が鈍く痺れた不感症を持て余している。
風聞によるとここはむかし外人居留区だった横浜の墓地をモデルにしており、壺を抱えた天使や十字架など瀟洒な意匠の墓が多く、異国情緒溢れる景観を維持している。
いくつかは横浜住みの外国人が寝子島に移住する際ともに移転してきたというが、どれとどれが該当するかは流し見ただけでは判別しがたい。
綺麗に刈りこまれた芝生をさくさくと踏み立ち止まる。
地面に平たい矩形の石を埋め込んだだけの殺風景な墓。
一世を風靡した著名人の墓にしてはやけにそっけなく目立たないが、これは故人の生前の遺言だそうだ。自殺する数年前、確かに本人が言っていた。墓をごてごてと飾り立てる俗物は軽蔑すると。
滑らかに削られた表面には、R.I.P……「安らかに眠れ」とラテン語のお決まりの碑が彫り込まれている。
ここに友人が眠っている。
栓を抜き、顔の前に持ってくる。
脳髄まで痺れさせるような甘く蠱惑的な香りに一瞬だけ眩暈を憶える。
連れて行かれそうだ。
どこへ?
悪魔の囁きに似て突飛な連想をかぶりを振ってすぐに打ち消し、瓶を逆さにして一滴垂らす。
その一滴はちょうど墓に手向けられた白百合の花弁に落ちて弾ける。
あたかも穢れを知らぬ清らかな乙女が魔性に魅入られ堕ちていくように、清涼な花の香りを凌いで淫蕩で蠱惑的な香りが揺蕩い広がっていく。
過去と現在、記憶と体感が二重に絡まり合って錯綜する。
「お前を……いや、お前のピアノをイメージした香りだと店主は言っていた。俺もそう思う」
純潔を食い荒らし官能を開花させる媚薬の匂い。
ひとを破滅へと誘うピアノの音色。
嗅覚と聴覚を同時に犯されるような感覚。
長くここにいると頭がおかしくなりそうだ。
てのひらの体温をすっかり吸い取った飴色の小瓶を墓にそなえ、あっさりと身を翻す。
動揺を見せぬよう立ち去る背後で一際強く香水が匂い立ち、やがてそれも揮発して大気に溶け込み空へと還る……
誰かに呼ばれた気がして振り返る。
そこには霊園には誰もいない。
墓には見知らぬ誰かが手向けた白百合と、俺が贈った香水の瓶だけが置かれていた。
手放す寸前ラベルの悪魔の顔が歪み、俺へと笑いかけた錯覚に襲われた。
■終■
足元からふわりと立ち上る芳香が鼻腔をくすぐる。
先客があった証拠に、黒いリボンを巻いた白百合の花束が手向けられている。あまり時間が経ってないのだろう、朝露に濡れた瑞々しい花弁を見つめつつ感傷的だなと胸裏で呟く。
今、俺はどんな顔をしているのだろう。おそらくはそれがお前の素顔だとかつて彼方に酷評された、ひどく冷めた無表情をしていることだろう。
こんな感傷的な真似をするのは誰だ。遺族……否、熱狂的なファンか。彼方にはストーカーまがいのファンが多くいた。女性が圧倒的多数だったが、郵送で婚姻届を送り付けられた時はさすがに驚いたと、笑いながら話していた。
あのルックスとピアノの腕前だ、女性が惑わされない方がおかしいだろう。
コンサートに詰めかけたファンがお前の本性を知ったら幻滅するだろうなと皮肉めかし揶揄すれば、彼方は傲慢にもこう言い放った。
『まさか。あいつらは俺のピアノに惚れこんでるんだ、俺の正体が人間のクズだろうが悪魔だろうがピアノさえ聞けるならそれで構わないのさ』
そしてこう付け加えた。あいつらは俺のピアノの奴隷なのさ、と。
彼方は人格が破綻してた。人をこよなく惹きつけるカリスマ性の裏で芸術家特有のエキセントリックな問題行動も多々あった。だからだろうか、まだまだこれからという時にあんな結末を選んでしまったのは。
白衣のポケットに手を突っ込み、無意識に弄んでいた小瓶を取り出す。俺の手の温度が伝染り、かすかにぬくもった硝子の瓶。
「これを渡しにきた」
言葉少なく用件を告げる。
先日シーサイドタウンの香水専門店で購入した香水……亡き友人用に誂えた代物だ。ラベルにはピアノを弾く悪魔が描かれている。彫りの深い横顔はどことなく故人を彷彿とさせた。