俺はケータイだ。名前はまだない。おそらくこれからもない。
が、ケータイに名前を付ける人間は余程の無機物フェチをおいて他にいないと思うのだがいかがだろうか。待ち受けに好きなアニメキャラを設定してその名前で呼びかける腐女子はいてもだ。何を隠そう我がマスターだ。
我がマスターの名は常盤四月。寝子高芸術科1年生で専攻は絵、肩書にさらに付加するなら現役女子高生漫画家である。より現実に即せば女子の前に(腐)が入るが。
本日、寝子高では鳥追い……もとい、トリエンナーレという祭典が行われている。マスターご執心の薄い本が飛び交う祭典とはまた違うらしく、いかにも青春バンザイ、白い歯と光る汗が似つかわしい健全な空気が充溢している。
開幕からこちら浮足立った高校生が集団で行き交い、老若男女幅広い年代の来場者が猥雑に出入りしている。
だがマスターには喧しい屋台の呼び込みも、じゃれいあながら鼻先を通り過ぎていく女子高生の黄色い嬌声も耳に入ってないようで、終始そわそわしている。
なお、これは想像図だ。
現在、俺はマスターが後生大事に抱える鞄の中に無造作に突っ込まれている。
ジッパーを開けたらそこはカオスだった。
見目麗しい少年青年中年たちが卑猥に絡んだ肌色面積の多い本が犇めく中、俺は非常に肩身の狭い思いを強いられている。おしくらまんじゅう押されて喘ぐ平面の少年たちが、「何コイツ?」「黒くて固くて邪魔なんだけど」とでも言いたげにジロジロ不躾な視線を向けてくる。いたたまれない。
早く外に出してほしい、新鮮な空気が吸いたい。
そんな訴えを汲んだのか、ジッパーの隙間からおもむろに突っ込まれた手が、周囲のBL本をかき分けながらもたつきがちに俺を掴む。
「ふう」
ため息ひとつ、呟く。
「どうしよう、緊張してきちゃった」
現在、マスターは待ち合わせ中である。
きょう何度目かに俺を取り出した理由は液晶で時間を確認する為だ。
約束の時間にはまだ早い。
だがマスターはいてもたってもいられず、俺と鞄をひったくるようにしてせっかちに飛び出して来たのだ。
マスターとの付き合いは長い。かれこれ4年になる。
俺はマスターが11歳の時、デビューのお祝いに両親から贈られた。
編集部との連絡用にとの建前を言い含められていたが、その頃からムッツリだったマスターは、こっそりエロい単語を検索したりアニメ動画やBLの電子書籍をダウンロードしたり、膨大な前科の履歴を積み上げてきた。
瓶底メガネに隠れた凶悪な三白眼も華奢で頼りない体躯も、なんというか非常にマスターの好みにハマってしまった。
ドツボである。
彼にとっては人生最大の不運と誤算だったかもしれない。が、もう手遅れだ。
俺はマスターのケータイだ。
マスターの初恋を応援したい。
……したいが、正直、ほんの少し微妙だ。
『キミを擬人化したら黒髪メガネ受け男子だね!』
嘗てマスターは俺にそう言った。
たしかにクレバーでクールな俺を擬人化すればさぞ黒髪メガネが似合う青年になるだろうが、マスターのアレは冗談で、妄想の戯れで、俺はどうあがいたところでマスター好みの黒髪メガネ男子になれないのだ。
ちなみに「受け」という属性には異議を申し立てたい。
「あっ」
マスターが急に顔を上げる。
待ち人きたり。
「おーい、四月ちゃーん!」
「多喜くーん!」
人ごみの向こうでぴょんぴょん飛び跳ねる男子を発見、ぶんぶん手を振り返す。一緒にぶんぶん振られて目を回す。
喜びはしゃぐマスターの笑顔がぐるり反転、緊張と高揚に汗ばむ手にしっかりと俺を握り締め、人ごみに逆流して走りだす。
互いに駆け寄り真ん中で合流するふたり。
はあはあ息を弾ませながら、照れくさげな笑顔を交わす。
「ごめん、待った?」
「全然、いまきたとこ!」
「よかったあ」
大袈裟に胸なでおろす多喜氏に応えてはにかみ、こちらを見もせず鞄に突っ込む。
やれやれ、前途多難だ。