縁側の床板が軋む音が聞こえたような気がして、鈴野直次郎はゆっくりと起き上がり、隣の布団がもぬけの殻になっているのを見て溜息を吐いた。
自由気ままに今を生きろと孫に言い聞かせてきた成果として、孫の鈴野海斗は時折ひょいっと家を抜け出して島を一周ぐるりと走って来たり、山へ登ったりして汗まみれになって帰ってくる。
今年になってやっと陸上自衛隊という夢が出来たからか、その頻度も減りつつあった。とはいえ、完全に無くなったわけではない。今夜もどこかへ、走りに行っているのだろう。
そう思った直次郎はおもむろに立ち上がると、風呂でも沸かしておくかと思った。だが、風呂を沸かす必要などないとすぐに分かった。
立ちあがった直次郎の視界の隅に、庭で一人ぽつんとつっ立っている海斗が見えたのだ。
「海斗、何しとんじゃ?」
「あぁー……爺ちゃん。別に何もしとらんよ。ちょっと怖い夢みたんで、ぼけっとしてただけだっちゃ」
「そか。虫に食われんようにだけするんじゃぞ」
「んなの、分かっとるっちゃ」
ならええんだけんど、と呟いて、直次郎は布団に戻ろうとした。
その拍子に、薄い雲を透かして注ぐ月光を浴びた自分の孫の肩が、微かに震えているのが見えた。
お前、なじょしたんじゃ?」
「なじょもしとらんよ。ただちっと、怖い夢を見ただけだべや」
「どんな夢じゃ、そりゃ」
捲った布団を手放して、直次郎は縁側を降りてスリッパを履き、海斗の傍らまで歩み寄る。
嗚咽もあげずに海斗は泣いている。まるで子猫のように、なにかを恐れるように微かに震えながら、瞳からぽろぽろと涙を流し、じっと自分の両手を見つめていた。
「オラ、人を大勢殺したんだっちゃ。銃で撃って、銃床で殴って、銃剣で突き刺して、手榴弾で吹っ飛ばしたりしてたんだべ」
震えながら、海斗はゆっくりと振り向く。
嗚咽が漏れないように、唇をぎゅっと結んで、大声で泣き出したいのを堪えるかのように、大きな瞳がすっと細められている。
わなわなと震えが止まらない両手は、それまでなにかを握っていたようで、右手の人差し指だけが妙にぴんと伸びきっていた。
どこかでこれと同じ光景を見たなと、直次郎は海斗を無言で抱き締めながら思う。
中国大陸でもガ島でもない。日本から遠く離れたインドで、補充兵の一人ががたがた震えながら、こうしてぽろぽろと泣いていたのだ。
だがそれでも、戦争の記憶がそれを轢き潰す。遠くの島々から命からがら生き延びて聞いたのは、兄がソロモン沖で死んだという報告くらいなもので、良い知らせはなにもない。
戦争が終わって復員船に乗り込み帰ってみれば、仙台は焼け野原。妹は行方も知れず、鈴野の本家も連絡がつかない。本当になにもかもを失ってからの、長い半生を経て今日に至る。
本当は何人殺したのか、覚えている。目の前で何人死んだか、覚えている。あの島でなにが起き、なにが行われたのかも、すべて覚えている。
けれどそれを孫に語り聞かせる必要はない。程ほどに話を薄めて、遠い昔の話をするように語るだけ。自分が本当になにをしたかは、墓まで持っていくつもりだ。
「……オラ、フツウがどれだけ大切で尊いものか、本当に分かった気がするっちゃ」
「それが分かれば偉いもんじゃ。生きて飯を食って不平不満を呟き、お天道様の下でのんびり歩けるだけでも、充分過ぎる程、幸せなんだと分かれば、そりゃ物凄く偉いもんじゃ」
わしゃわしゃと癖のある髪の毛をくしゃくしゃにしながら、直次郎は海斗の頭を撫でる。
ただそれだけのことだというのに、直次郎は救われたような気持ちになった。平和な時代に平和に生きる、そんな子孫を残せて良かったと思う。
泣き出しそうな胸中を伏せ、柔和に微笑む直次郎に海斗はにっこりと笑顔を見せる。赤い目元と涙の跡と笑顔という組み合わせは、とても幼稚で無垢に映った。
長い半生を生き延びてきて良かったと、直次郎は心の中で静かに呟く。長い長い、苦しみ抜いた半生だったが、良いこともそれなりにあるものなのだ、と。