ザザー……ザザー・・・・・・ザザザー……。
(あ、また聞こえる……)
昔一度だけ行ったことのある海辺で聞いたことがある波の声、潮騒の音。
それが今頭の奥で聞こえる。
(……また、行きたいなぁ)
突き抜けるような空の蒼と、どこまでも深い海の藍。
白い雲が空を彩り、眩い陽の光が海を輝かせる。
素晴らしい夏の1日。
しかし痛む頭と胸がその日がもう過ぎ去ったことを無情に告げる。
規則正しく動くことを知らない心臓は、それでも僕を生かそうと懸命に脈打っているが苦しいことに変わりはない。
数日前からさがらない熱は脳みそを溶かしてしまうのではないかと思う。
メイドと母が看てくれる家の寝室から、ドクターとナースが診てくれる病室に移っても僕は変わらない。
変わったことと言えば、酸素マスクと点滴が追加されたこと位。
目を開くのもしんどくて、目を閉じているときりきりとしめつける頭の奥で海の音がすることに気づいた。
高熱を出すと、決まってこの音が聞こえてくる。
そして海が恋しくなる。
(元気になったら、また行きたい……)
元気になったら。
それがどんなに難しいことかは、子どもの自分でも良く知っている。
でも、諦めたくなかった。
『家を継げるようにもう一人子どもを作った方がいい』
そんな周囲の言葉を決して許さなかった父。
貴方の代わりはいないからと、メイドが止めるのも聞かずに寝ずに看病することもある母。
優しい両親のためにも、そして自分自身の為にも。
(読んでない本もたくさんあるし、それにもっと遊びたい)
自分と違い、健康で活発な幼馴染の姿が脳裏をよぎる。
ここまで悪くなる前に、『また海に行きたい』と書いた手紙に『俺が連れて行ってやる』と返信があったのは昨日のこと。
彼はかつて僕を病室から連れ出した前科があるから、手紙を読んでくれたナースはその内容に苦笑していた。
前回より具合が悪いから、同じように抜け出すことは出来ないと思うけれど。
それでも僕は意志の強いあの幼馴染にどこか期待していた。
(ああ、本当に……僕も彼みたいに)
羨望は更に胸を締め付け、息が詰まる。
そして意識が途切れるまでそう時間はかからなかった。
「レイ、大丈夫?」
「……かあさま、」
次に目が覚めた時、目が楽に開けられるようになっていた。
心配そうな母の顔もはっきりとわかる。
熱が少しひいてくれたようだった。
「いいのよ、無理にしゃべらなくて。何か欲しいものはある?飲み物や軽いものなら食べても大丈夫ってドクターも仰っていたわ」
額に置かれた少しひんやりした母の手が心地よい。
僕はもう一度目を閉じて、頭を横に振る。
「ううん。ただ……」
「ただ?」
「また海に行きたいなって、思ってた」
母の表情は見なくても想像はついた。
小さく息を呑む音もしたから。
僕は自分の言葉に少しだけ後悔する。
(母様、ごめんね……)
でも僕が謝罪を口にすれば更に母は悲しい顔をしてしまうだろう。
だから僕はこれ以上言葉を紡がないことに決めた。
そして僅かな沈黙の時間が流れた。
「あのね、レイ」
沈黙を先に破ったのは母だった。
呼びかけと共に、僕の手に何かが渡された。
「なに、これ……」
僕が目を開いて手の中を見ると、そこにあったのは。
「『海』……?」
微かに潮の香りがするガラス瓶。
水が満たされている中には、綺麗な貝殻とサンゴの欠片。
そして小さな宝箱と宝石のようなマーブル玉と金粉。
「貴方が寝ている間に持ってきてくれたのよ」
誰が、なんて聞かなくても解る。
ガラス瓶に巻かれた青いリボンがサイン代わりだ。
母が微笑みながら瓶を枕元に置いてくれた。
「次の夏は一緒に行けると良いわね」
「うん、絶対一緒に行く。母様と、父様も一緒だよ」
「ええ、一緒に行きましょうね」
そしてその年の夏はベッドの上で過ぎ去っていった。
5年ほど前の話だ。
「ここが寝子島かぁ」
青い空、白い雲、潮風に猫の鳴き声が乗って聞こえる。
あれほど恋い焦がれた海に囲まれた場所。
幼馴染ほど丈夫とまではいかないけれど。
それでもこうやって一人で出歩ける位の体になった僕は、ここにやってきた。
幼馴染から聞く、ここでの生活がとても楽しそうで、興味深かった。
それに色んなことを聞いて、見て、たくさんの人と交流したかった。
最期まで心配していた両親も、最後は笑顔で見送ってくれた。
「無理だけはしないように」と。
「さーて、寝子島高校はどこにあるんだっけ。あ、ちょっといいですかー?」
こうして僕の寝子島での生活が始まった。