【1】
「久しいですね。三年ぶり位になりますか」
「その流暢な日本語を聞く限り、そっちの生活は特に問題ないようだな」
――珍しい相手からの電話があったものだ、とエレノアは陰鬱な笑みを浮かべながら、耳元のスマートフォンから流れてくる声へと意識を傾ける。
数奇な運命の巡り合わせから、一時期だだっ広い屋敷で同棲していた女性からの連絡だった。
養親が急死してからというもの、箍が外れたように異常な振る舞いを見せていたエレノアの数少ない友人と言える相手だったが、悪意に満ちたエレノアの「ジョーク」が原因で今では絶縁状態にある。
そんな人物からの電話にも関わらず、エレノアの口調には戸惑いも躊躇いも無い。
普段通りの穏やかながらどこか空々しい話し方で、彼女は淡々と続ける。
「顔も見たくない、声も聞きたくないと仰っていたのに、貴方から電話をかけてくるとはどういった心変わりで? これでは私も声をお聞かせするしかないじゃないですか」
挑発的な物言いに返ってくるのは鋭い舌打ち。
過去幾度となく繰り返されたやり取りだ。
「お前は相変わらずだな。別に理由なんてないぜ。旧友に電話をかける理由なんて気が向いたらで十分だ」
「『気が向いたら』。いつ聞いてもいい言葉ですね」
「お前が言うと何でも皮肉に聞こえるな……まあいい、話したいことは割と纏まっている。お前の近況についてだ」
そこで相手は話を切ると、少し間を置いてその言葉を口にする。
「最近、どうなんだ?」
何気ない台詞に込められた万感の思い。
それに気づいているからこそ、エレノアは暗い笑みを一層深めた。
「貴方に絶交を申し渡されたあの日から、私の在り方は何一つとして変わっていませんよ。想像していたよりも遥かに起伏に富んだ日常の中で、心行くまで趣を味あわせてもらっていますけれども、それだけです」
「何一つとして成長していないってことかよ」
苦虫を噛み潰したようなその声は、電話を通してなお強い苛立ちを滲ませていた。
「そうやってイカれたことをやり続けて、他人を巻き込んで、その不幸を嗤えればお前の人生は満足なのか?」
【2】
「その問い掛けも何年ぶりでしょうね……勿論、満足に決まっています。ただ以前も詳しく申し上げたと思うのですが、私は不幸だけを嗜むような勿体無いことをしているわけではありません。助長と挑発を手段とする天邪鬼な振る舞いを好んでいるだけで、それが他人にとって悲劇であろうと喜劇であろうと気にはしませんよ。不幸を拝むことが多いというのは否定しませんがね」
「お前はどうしてそこまで他者の人格を無視出来る? お前の瞳には全ての人間が配慮するまでも無い家畜であるかのように映っているのか?」
「全てではありませんよ。自分だけの価値観を持ち、動物的な本能に抗い、強固な意志を持って生きている人間だと敬意を払う相手もいます。ただ、敬意を払っている相手のために行動することに私が価値を見出していないというだけの話です」
――しばらくの間、沈黙が降りる。
エレノアはソファに深く腰掛けながら、退屈そうな色は少しも見せず、その静寂にすら趣があるとばかりに、目を細めて楽しむ様子を見せている。
ややあって電話口から、全身の力を抜くような深い溜息が流れてきた。
「いいぜ、分かった。自分の殻に閉じこもって傍観者であり続けることが人間らしい生き方だと、そう盲信している馬鹿にはもう言うことはない……世界を見捨てるには早過ぎると、合気道と日本語を教えたのも全部無駄になったわけだ」
「少なくとも私にとっては、貴方の指導はとても有益なものでした。今の貴方にとっては何の慰めにもならないでしょうけれども。他人の幸せを勝手に妄想して、それを押し付けようとする方には、私がどう感じているか何て関係無いのでしょうからね……以前の貴方なら『自分がやりたいからやった』と、そう言い切ったでしょう。貴方も自分の価値を他人任せにするような有象無象に成り下がったのですか? ふふふ」
「成長と言ってほしいな。もうコンプレックスに振り回されるような生き方は止めたんだ。お前ももう少し寛容になった方がいいぜ。思い込みの友情、まやかしの親交……別にいいじゃないかそれで。錯覚に身を委ねたってそれで理性を放棄したことにはならないはずだ」
「そうですね、貴方のそうした考えに価値を見出せたら、そうしてみるのも吝かではないかもしれませんね……っく、あはははははははっ!」
唐突に、堪えきれないとばかりにエレノアの口元から哄笑が溢れ出る。
【3】
「結局の所この話は平行線なんですよ。全ては私がそうしたいか、そうしたくないかの二択に集約されるんですから!」
「それは……だが、しかし……そうだ、ならその二択は何を基準に決めているんだ? まさか気分で決めているわけではないだろうな? お前らしく『理性的』に決めているんだろう? お前は何を信じて生きている?」
「私が信じるもの?」
そこでエレノアの声の調子が変わる。
それはとっておきのジョークを披露しようとする道化の潜め声にも似た、真剣味と高揚が奇妙に混じり合うトーンだった。
「沢山ありますよ! ほとんどの人間の心の奥底は醜く、エゴイスティックで、獣欲に雁字搦めにされていて、大義名分の下大勢で罪人に石を投げるのが大好きで、他人の不幸を喝采し、自分の不幸は自分に嘘をついて認めず、罪人の肉親を罵倒することに興奮し、お金のために心身を売り渡し、優れた人間相手には粗探しをする……まあざっとこんなところでしょうか。こうした信条を基に、人間の建前と本音のギャップをジョークで当てこすってやり、『皮肉な結末』を導くために立ち回る……そういう風に私は生きているんです。どうです? 単純明快でしょう? あはははははははははっ!」
しばらく笑い続けた後、エレノアは絶句している相手に最後の言葉を伝える。
「寝子島って知ってます? 今そこにいるんですけれどもね、ふふふふふ、私の遊び場に相応しいところですよ。この舞台が、私を完璧なものにしてくれるでしょう。貴方も一度来てみませんか? その時には最高のジョークでもてなして差し上げましょう」
そうして言い終えた直後、ぷつっという音と共に通話が途絶える。
エレノアは何の気なしに切れたスマートフォンを眺め、直ぐに興味を失ったように手近なテーブルへと無造作に置いた。
「あー楽しかった」