(1)
ひらひらと小さな柊の葉が舞い落ちた園庭は
秋からの甘い香が残っていた。
幼稚園は、お迎え時のピークを過ぎると静かになっていく。
さようなら先生、またね、と手をつないだ親子たちが去っていく。
別れを惜しむのもいた。今日でその先生が辞めるからだ。
残った園児は二人。
屋内にいる園長の孫娘はピアニカを練習し、園の裏の家に帰るだけ。
もう一人は園庭の端で母の迎えを待つ5歳ほどの男の子。
制服のシャツのボタン
―わざと外して、いつも先生に直してもらっていた―
を直したり、《あまさき こうたろう》と書かれたバッジを指で弾いたりする。
先生は園長に挨拶を終え、園庭に佇む彼を見つけると
サンダルを袋から取り出して履き、歩み寄る。
先生がきても、彼は下を向いたまま、足で砂利をいじり続ける。
「どしたのー?」先生が微笑みかければ、
彼は先生の柔和な顔、穏やかな瞳、そして黒くて長い髪を見た。
ただいつもその髪を緑色のリボンで結っていたのに、
もう付けてないのを見ると悲しくなったのか、
少年の瞳が潤いはじめた。
大好きな先生が、とうとう今日で会えなくなる、
誰かと今日別れてもまた明日会える、
それが当前だった彼には、たとえ先週から知らされていたとしても、
先生が“けっこん”で先生を辞めるということが理解できなかった。
彼には小さな妹たちがいて、母を占有されていた。
とはいえ、下の子が可愛がられて当然と割り切り、
兄としてそのお世話もしていた。
彼を小さなお手伝いさんだと殊勝にも褒めてくれる先生は
まるで母や姉のようなもので、励ましは何より暖かく
入園からの2年、ずっと心の支えとなった。
彼女は長細い膝を折り曲げ、屈む。
折角の私服が汚れても、気にはとめない。
「ほら、おかあさんくるまで、中で絵本でもよもうか?
そうだ荒太くんだけ熱出しちゃってたから
『ぐるとぐれのおちば拾い』とちゅうだったよねー」
先生は指で彼の小さな頭をなでるも
それが触れてはいけないスイッチだったように、彼は涙を零す。
「せ・・・ せんせ・・・ いぁなぃぇ・・・」
言葉が出せない、それに暖かい涙のつぶが、
少年の頬にぽろぽろと伝い流れている。
ちょうどその時、奥から聞こえるピアニカのメロディが
偶然悲しい和音を奏で、日の落ちた園庭に響いては
冷たい空気を誘い込む。
(2)
困ってしまって、先生はよしよしと、その小さな頭を抱きしめ
「ごめんね・・・ まだ先生いるから、ね。もう、泣かないで」
と、あやすように言う。
取り出したハンカチで涙をぬぐっても、まだ泣き止まない少年に対して、
先生は思いついたとばかりに
「じゃ、せんせいとゲームしよう。ね?せんせいが荒太くんのおねがい、
ひとつだけきいてあげます、そしたら泣かないって約束してください。
わかったかなー?」
いつもの声色で話しかければ、小さな園児は金切り声で応えた。
「ぉく・・・ぼく、ぼくね」
彼は何かをせがんだつもりだが、その声に嗚咽も混じり、
禄に主張ができない、舌が空回りする。
とうとう言えずに顔をぐしゃぐしゃにした。
しかし、不思議なことに先生はおねがいを直ぐ理解し、
ふふと微笑んで特にためらうこともせず、男の子の小さな手をとり
顔を近づけると、その口元に自らの唇を重ねた。
それは、寝る前に稀に母がしてくれた軽いキスとは違い、
どこか熱がこもっていたし、何もかもが包まれていく、感覚だった。
荒太は泣き腫らした目を、驚くように見開く。
ただ目の前にいるのは大好きな先生なのだし、
おねがいが叶えられたことで頭の中が真っ白になり、再び目を閉じる。
そうするとまるで魔法のように、さっきまでの悲しみがすっと溶けていき、
いつもの健やかなな気持ちが満ちていった。
彼は自分から口を離して、呼吸をする。
「もう泣かないよね、約束できる・・・かな」
と先生が言うと、彼の目尻を指でこすって、
その涙を拭いた。先生も少しだけ涙ぐんでいた。
荒太は何も言わず、頷く。
「やっぱり荒太くん、素直でいい子さんだぁー」
そう言うと先生はさらさらした彼の頭を撫でた。
「ほんとにえらいよ、お兄ちゃんだもんねぇ」
先生は少年の首に腕を回し、またも抱きしめた。
目を閉じ、少年の頬に自分の頬を擦り合わせる。
甘い香り、先生の声。抱擁の温度。くちづけ。
彼はそうされる中で、もう滅多なことでは泣かないと、
小さな心にそっと刻み込んだ。
「さようなら、元気でね」
母が迎えに来たのはそれから数分後。
先生にむかって元気にさようならを言えたときには、
さっきまでの涙は嘘のように消えていた。
それは彼が初めて経験したさよならが、
何よりも温かく、忘れがたい別離だったからなのかもしれない。
(了)