声のない世界で｜リアクション

声のない世界で

◆
お昼を前に、ようやく起床した時のことである。
小野田万里は、携帯に同じバイト先の学生の子からメールが入っていた。
寝起きでぼっさぼさの髪をかきあげて見てみると、
『急に用事が入っちゃったんで悪いですけど午後からのバイト変わって下さい＞＜！』
とのこと。
万里の眠そうな目が、なんとも言えない感じに細められた。
ああ、うん。知ってる。
この子の言ってる『用事』ってつまり、アレだ。
彼氏とのデートだ。
まったくあん畜生め。
万里にそういうのがないこと、判っているくせに。
全く、年下のくせに足元を見おってからに。
とはいえ、万里も大人である。
伊達や酔狂で友人の結婚を見送り続けて幾星霜なわけではないのだ。
ここは、『はーい楽しんでらっしゃい』と送り出すのが大人の義務というものだ。
で、そしたらこんな返信が来た。
『ありがとうございます！　行ってきます！』
……。
楽しい用事なのは否定しないのかよ、こん畜生。

――ということがありつつ、バイトである。
本来のシフトと合わせて、聞いて驚け１２時間労働。
まあ、よゆーよゆー。
だっておちんぎんほしいし。
と、思っていたのだけれども。

◆
今日も今日とて、塔ヶ崎璃亜はアルバイトである。
生活費と学費を稼がねばならないのだ。
今日のアルバイトはファミレスのウエイトレス。
来店したお客様を待たせないようにお席へ案内し、そのままさり気なくイベント限定メニューを紹介する。
頭のなかで反芻した手順は完璧。あとはそれ忠実に実行すればいいだけだ。
とか言ってるうちに、お客様がご来店。
さあ、
「　　　　　　　　」
――って、声が出ない！？
喉を押さえて口をパクパクするけれど、うんともすんとも言いやしない。
いきなり声が出なくなるなんて、病気？　それともまた何か不思議なことが？
挙動不審なその様子に、お客様の訝しげな視線が刺さる。
とっさに持っていた伝票の裏にボールペンで文字を、
「　」
書けない。
よくよく見てみたら、インクが切れているではないか。
よりによって、こんな時に切れなくったっていいだろうに。
だらだらと，冷や汗が背筋を伝う。

そんな璃亜の様子に気付いたのが万里である。
何だかよくわからんが困っているみたいなので、そっと隣に歩み出た。
（万里視点では）すがるような璃亜の眼差しに応えるべく、ここは大人らしく颯爽と助け舟を、
「　　　　　　　　」
――……あれ？
出ない。
なんか出ない。
さっきまで普通に出てたはずなのに。
ちらっと璃亜に視線を向ける。
目が合った。
「　」
「　」
うん、駄目なやつだこれ。
ちょうど近場を通りかかった他のバイトに、ジェスチャーで状況を伝えてその場を任せることにした。
そして璃亜共々、一旦奥へと引っ込むことに。
やー、大変だったね――と言おうとしかけ、声が出ない現状を改めて認識する。
璃亜の方もやっぱりまだ声は出ないようで、細っこい身体でぺこぺこと頭を下げている姿はなんとも気の毒な感じだ。
ともかくも、接客業でこれはマズい。
断腸の思いで、件の学生の子にメールを送ることにした。
『ごめん、体調悪くて代役できなくなった』
まるで嫉妬したおばさんの嫌がらせみたいで辛い。
そこまで落ちぶれちゃいないのに。
『あんたはどうするのー』
ついでに、璃亜にもメール画面を使って聞いてみた。
彼女はいつのまにやら用意していたメモ帳に、新しいボールペンでさらさらと。
『私はこのまま続けます』
『そっかー。あたしは諦めて帰るけど、まあ頑張ってねー』
よくやるなあ、この子――そう思わずにはいられない。

璃亜だって、この状況は流石にマズいと思う。
だけど、アルバイトを続けなければならない理由があるのだ。
具体的に言うと生活費とか学費とか。
だから、例えどんな目に遭遇しようとめげずにアルバイトをしないと……！
そう意気込んではみたものの、なかなかままならないものである。
メモ帳に筆談の為の文言を書きつけている最中、手が滑ってペンが床に転がってしまった。
拾おうと慌ててしゃがみこんだら、あろうことか自分の落としたペンで足が滑った。
くるんと反転しかけた視界、映るのはお冷の入れ物を持った他のバイトさん。
「うわっと！？」
なすすべなくぶつかって、バイトさんが体勢を崩す。
入れ物から、お冷がだばっとこぼれる。
璃亜の頭の上からばっしゃーん、と。
頭から制服からびっしゃびっしゃである。
しかも、ここの制服の色は白。
つまりどうなるかというと。
「と、塔ヶ崎さん、服！　服！」
「　　」
透けるのだ。
璃亜の色白の肌に、さぁっと朱が差した。

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