スパイな日々｜リアクション

スパイな日々

〇とても重要な謎任務

　森本明乃は寝子島図書館の館長です。
　大学で図書館司書の資格を取ったばかりに、役場に就職したらそのまま図書館勤務になり、司書として働いているうちになぜか出世して、結局５０歳で館長になっていました。
　普通司書の就職口はなかなかないのにすごいね、うらやましいね、と人から言われるたびに、
「おかげで趣味の２．５次元演劇を観に行くヒマもないのよ」
　と明乃は苦笑するのでした。

　そんな明乃には、図書館館長になった途端背負うことになった館長とは別の責任がありました。
「おわかりかと思いますが、これはくれぐれも内密に願います。信用できる家族相手でも」
　前任者はそう言って、明乃にスマホを渡しました。
「え？　これは……？」
　想像もしていなかった状況に戸惑いつつ、明乃は引継書にはないもう一つの任務を引き継いだのでした。

　それは書庫の一番奥にしまわれた、一冊の古書。
　タイトルは『シトラス・ガムダン思想研究序説』。
　出版年月日は今から５０年前で、何の変哲もない哲学書です。
　けれど、ここに赴任した図書館員は前任者から言い渡されます。
「この本の取り扱いは館長のみが許される。この本の閲覧希望者が現れたら、館長に連絡すること」
　なぜ？　と訊ねても、理由はわからないけど先輩から引き継がれている、という返事が返ってくるばかりでした。

　それからの手順は明乃だけに知らされています。
　冷やかしでない定められた閲覧希望者ならば、こう言うと。
「この本の299ページが抜けている」
　そう言われたら館長は確認します。
「299ページを取り寄せるのですか？」
「そうだ。急いでいる」
　以上のやり取りで、極めて重要な連絡の取次ぎを行うことが決定されるのです。
　閲覧希望者が退去後、館長室へ行き、館長就任時に渡された特別なスマホで秘匿回線で名も知らぬ相手に「299ページを取り寄せ希望」と「相手の素性」を伝達する、というのが任務の全容でした。
「森本さんの在任中にこの任務があるかはわかりません。後任の者にも、しっかりと引き継いでください。これは重要任務なのです」
　そう言われて、狐につままれたような気分で引継ぎを終え、明乃はひとりごちました。
「まるでスパイみたいだ……なまじ出世しちゃったばっかりに、面倒な仕事が増えちゃったねえ」

　とはいえ、それからそんな利用者が現れることはなく、平凡な雑事に追われる日々が続いていました。
（本当にそんな人くるのかしら？　前任の館長、真面目な顔して新任館長をからかったんじゃないでしょうね？）
　半信半疑のまま、いつしかそんなことを忘れていたのですが。
　ある日、それは突然にやってきました。
　
　明乃が前日見た２．５次元の舞台の余韻に浸りながら、気持ちを切り替えなくちゃ、と決裁のはんこを押すべく書類を広げた時。
　ルルルル……
　内線電話が鳴りました。
「はい館長室です。……来客？　シトラス・ガムダン思想研究序説？！」
　途端に、あの日の引継ぎ内容がくっきりとよみがえりました。
「すぐに行きます」
　明乃は背筋を伸ばし、重要任務を行うためカウンターへと向かいました。

　杖をついた白髪の老人がこちらに視線を向けた時、明乃は悟りました。
（今から私は、舞台で見たような演者となり、自分の役を全うする）
　それは拍手もカーテンコールもない、地味な舞台ではあるけれど。
　これがなければ舞台が成立しない、極めて重要な役割なのだと。

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