先月の話だ。
　水槻 清恋が受け取った転属命令書を見るなり、
「いいなあ～」
　一年先輩の刑事がうらやましげな口をきいた。
「寝子島じゃ～ん、超ラッキーだよ」
「離島ですけど……」
　清恋としては怪訝な顔にならざるを得ない。電車一本で行けるとはいえ陸の孤島みたいな土地、そもそもその電車すら、『ねこでん』なる超ローカル線だ。すぐ止まるし本数も多くない。ありていにいえば僻地だ。
「だからいいんだよ～。あそこは平和そのもので、骨休みにはいいよ」
「そういうものですかね」
「そういうもんだって。しかも巡査部長殿に昇進だよ。給料もばっちりアップだしさあ。俺が代わってほしいくらいだよ～」
　だったら代わってあげましょうか、と言いたかったが清恋はこらえた。
　昇進は事実だ。先輩にはその権利がない。
　職制上はスピード出世、この結果は勝ち取ったものである。ここ数年の働きが評価されたのだ――と思いたい。
　清恋は大卒で神奈川県警に入った。数カ所転属したが基本は川崎で、犯罪、警備にパトロール、日夜駆けずり回る毎日だった。ときに泥水をすすりときに豪雨に打たれた。休日も昇進試験の勉強や自主訓練に励み、プライベートな時間をまとめてとった記憶はない。
　そうして四月一日付けで任命されたのが巡査部長、同時に寝子島署への転属だったのである。
　それにしても、と忸怩たる思いがある。
　はぁ、とため息がでるがそれは心のなかにとどめおく。
　親は何考えてこんな名前つけたんだろ。
　命令書にある名前は『司法警察員巡査部長　水槻清恋』。
　前半、『司法警察員巡査部長』はいい。あこがれの職だった。
　しかし『水槻清恋』はどうしたものか。少女漫画家か恋愛小説家のペンネームみたいじゃないか。こんな名前をつけた親に疑義を挟みたい。これではドリーミーなパステルカラーの便せんに、巡査部長という重い文鎮が置かれているようなものである。控え目に言っても不相応なのだ。名前のほうが。
「というわけでしばらくゆっくりしたらいいよ、水槻巡査部長どのっ！」
　ふやけた笑みとともに先輩が敬礼してきたので、清恋は直立で敬礼を返した。
「はいっ！　行って参りますっ！」

　喫煙所、と書かれた札の下がる一角だが、ご自由にどうぞといった雰囲気は皆無だ。壁には『習慣的な喫煙はあなたの寿命を縮めます』とか『肺がん、心疾患に罹患するリスクが数倍になります』といった脅しみたいな文句と、真っ黒な肺のレントゲン写真が掲載された貼り紙がベタベタと貼られており、通路側もアクリルの高い壁が嫌がらせみたいにそびえ立っている。
　そんな光景には慣れた。川崎でもさんざ目にしてきたから。
　清恋がいら立っているのはポスターや壁が理由ではない。
　何が平和だよ！
　メンソールの煙草に火を付け、深々と吸い込んだ。
　見ると聞くでは大違いだ。寝子島は修羅の島ではないのかと思えてくる。
　思えば、急な欠員が出たとかで、正式赴任の四月を待たず前倒し寝子島に入ったのが良くなかったのだろうか。
　赴任初日にひったくり犯と大捕物を演じたのはいい。清恋の健脚は大いにいかされた。これくらいなら充実のうちに入る。
　しかし日を置かずして誘拐および人身売買が絡む重大事案が発生したのには参った。事件は急転直下、主犯格の男が逮捕されるという結果に終わったが、男はメッタ刺しにされて重傷、大がかりな組織が背後にあると疑われたため連日夜も昼ないような捜査が続くことになった。
　おかげで毎日肩こりと頭痛を味わっている。今日も清恋は、寸暇を盗みメンソール煙草で疲れを癒やしていた。
　喫煙所に大柄な男性が入ってきた。
「ういー」
　眉も髪も真っ白、おまけに量が多いのでもっさりした印象を受ける。つぎの三月で定年だという。吐前 亀二郎刑事だ。ニコニコとして愛想がいいが、いつも目は全然笑っていないのを清恋は知っている。相当な切れ者である。
「どうよみーちゃん？」
　パキっと音が立つ。亀二郎が缶コーヒーを開けたのだ。
「……『みーちゃん』はやめてください」
　清恋はじろりと冷ややかなまなざしを向けたが、亀二郎はいたって平気らしい。ふおふおと笑って、
「でもよう、『セレンちゃん』って呼ばれるよりいいだろう？」
「それは……そうですけど」
　私が自分の下の名前、嫌いなこともう見抜かれてる――！
　やはり老獪だ。油断できない。
「でさあ、みーちゃんよ。あの子どうしてる？」
　犯人の磯村をめった刺しにした少女のことだ。取り調べは清恋が担当した。かなり大人びているので二十代半ばと思きや、まだ十七歳と知って驚いた。少女が正当防衛で不起訴になったのは、清恋の報告によるものが大きい。
「ときどき見に行ってますが、特に問題はなさそうですね」
　少女は本件のみならず、さらに数ヶ月前に発生した銃乱射事件の被害者でもあった。短期間にふたつの事件、しかもその現場に居合わせたのである。いずれも事件としては無関係とわかってはいる。だとしても重なりすぎではないだろうか。もちろん偶然の可能性も否定はできないが、その後も継続して、清恋は少女の動向をそれとなく探っているのだった。
「それはいいねえ」
　亀二郎は評価しているのだろうか、それとも、なにも出てこないことをいぶかしんでいるのだろうか、あいまいな言い方なのでどうにもわからない。
　つづけて誘拐事件の被害者らへの事情聴取や周辺の裏付け捜査など、つぶさに確認すると、
「大変だねえ」
「おかげで四月はあっという間でしたよ。ＧＷも休日返上確定です」
　骨休みなんて異次元の話だ。川崎の先輩は、わかっていて言ったのだろうか。
「そいつはごくろーさん」
　コツ、とテーブルの上に缶コーヒーが置かれた。
「じゃ、またね」
「あ、あの……ありがとうございます」
　亀二郎はすでに背を向けており、片手だけ振って立ち去った。
　残されたのはアイスコーヒーだ。偶然だろうか。清恋が一番好きな銘柄である。亀二郎が飲んでいたものとは別メーカーのものだ。
　とっくに把握されてる……？　いや、偶然……？
　とりあえずもらっておこう。よく冷えている。

　気分転換に外に出たところで、警察署の正面玄関にしゃがみこんでいる姿を見かけた。
「田中さん」
「やあ」
　田中・ワージントン・広が顔を上げた。寝子島署刑事課のもう一人の『名物』刑事だ。変わった名前だが本名で、覚えてもらいたい相手には『ワージントン』と名乗っているということだ。たしか母親がスコットランド人らしい。ロマコメ映画で有名な英国俳優にちょっと似ている。
　ワージントンは猫をなでているのだった。出先から戻ってきたのか、いまから出て行くのか。
「この島、本当に猫が多いよね」
　ワージントンはまた、茶トラ猫を無心になでている。猫のほうはされるがままといった感じで、リラックスしているのか大きなあくびをしていた。
「ええ、警察署の玄関近くで日向ぼっことかしてたり」
　と言いながらも清恋は猫に近づかない。
「猫、苦手？」
　ぼんやり薄笑みを浮かべていただけなのに、急にワージントンがそんなことを言ったので一瞬清恋は言葉に詰まった。
　ま、いいか。隠しても仕方がない。
「まあ、少し。恐いな……って。猫に、あまりいい思い出がなくて」
　思い返すだけで顔から火が出そうだ。
　高校時代、清恋は妻子ある相手とドロドロの恋愛をした。初めての恋だった。若気のいたりと今ならわかるが、一時は駆け落ちとか心中も本気で検討したほどだ。
　妻子が留守中に相手の家での情事のあと、真夜中にふと目が覚めた。
　直後だった。
　男の飼い猫と猫と目があったのは。
　見テイルゾ、とそいつが言った気がした。
　彼と破局したのは、それから間もなくのことだったな。
　最初の恋が強烈すぎたせいか、以来どうも、恋愛は不得手になった。回数だけはそれなりにあったものの、充実度、期間、いずれも寸足らずだった。
　なんでこんなこと思い出したんだろ。
　はははと苦笑いして、「戻ります」とワージントンに告げ清恋は回れ右をした。
　……私、疲れてるのかなあ？