◆夢は咲くか
「はぁ、なんとか提出できたわ。通ったは通ったけれど……あれを発表するのよね……」
　溜息をつき木天蓼大学のキャンパスを歩くのはマリエッタ・ラシュリエだった。マリエッタはこの木天蓼大学の大学院理工学研究科博士前期課程在学中であり、二月中旬に修士論文の発表会があり、その論文を提出していた。

　修士論文を作ることを経験した者に聞けば、多くの者は大変、辛い、怖い、嫌になると答える。それもそのはずで、今まで在学し研究し学んできた中で新たな成果を上げ、その成果を論理的に且つ独自性を持たせ発表しなくてはならないのだ。

　その論文が教授に提出し通るということは、少なくとも認められた証ではある。その点はマリエッタの肩の荷は降りたのだが。発表となれば、半ば趣味で行っていた研究内容を自らの口で発表しなくてはならず。納得してもらわなければならない。それはマリエッタにとっては公開処刑の様なものだった。論文だけ置いて発表台から逃げられればいいのに。と思った生徒は少なくないかもしれない。マリエッタの口から溜息がまた一つ出る。

　一区切りが付くとしばらく羽根を伸ばして自由になれる。空いた時間何をしようかしら？　と思い、アルバイトをしようと学生課へ訪れると、試験監督補佐の募集を見つける。そういえばそんな時期ね。と思いながら、マリエッタはバイトに登録する。マリエッタは大学２年生の頃から試験監督補佐のバイトをしているため、すんなりと登録でき、日時が決まった。

　日程は二月初旬。木天蓼大学の一般入試日だ。一番多く受験生が訪れるため、準備は忙しくなりそうね。と思いながら、マリエッタはスケジューリングをした。試験の前日に仕事内容の説明が行われ、薄くはないマニュアルを渡される。マリエッタはやるべきことは殆ど頭に入っているが、今年からルールと関わってるかもしれないので、その辺はしっかり頭に入れておくためマニュアルに目を通す。今年は感染病が流行っているため、会場への誘導方法や、机の配置、椅子の間取りが細かく指定されていた。今年は忙しくなりそうだ。

　そして試験当日となる。朝は午前7時集合のため、普段より早起きになることが多い。マリエッタは早起きながらもしっかりとパンツスーツとフラットヒールで決め、会場へと向かう。スタッフが集まると早速準備が始まるのだが、今年は机や椅子のレイアウトが代わり、マニュアルの写真と見比べながら、教室を作り上げていく必要があった。また会場の誘導スペースも作る必要ができたため、いつもよりゆっくりしている時間は無く、せかせかと動くことになり忙しい。問題用紙の入った箱を持ち上げるのも、地味に重たく。マリエッタの担当した会場が、問題用紙のある場所から離れており、始まる前から中々の労働を強いられることになった。

（はぁ、ふぅ……忙しくなるとは思っていたけれど、ここまでとは思わなかったわ）
　なんとか必要な物を運び終え、会場の設置も完了した。マリエッタは一息つきながら、次にすることを思い浮かべる。次は受験生を誘導し、必要な事項を伝えなくてはならない。これが簡単そうに思えて、実は難しい。なぜなら時間ぴったりに試験を開始しなくてはならず、簡潔な説明をする必要があり、またギリギリに来場する受験生にも別途説明をしなくてはならないからだ。こればかりは受験生の都合にふりまわされるため、緊張してしまう。

　教室の窓から表が見え、騒がしくなってくる。受験生が訪れ誘導が始まった様だ。今年は来場した受験生を少しずつのグループに分けて入場させるため少々時間が掛かる。マリエッタは間に合うか不安になりながらも、ホワイトボードに必要事項を記載していく。

　やがて受験生達がマリエッタの居る教室へと入ってくる。殆どの受験生が、教室へ入ってくると、マリエッタを見てこんにちは。や、よろしくお願いします。と挨拶をする。マリエッタが笑顔で挨拶を返すと、その見た目と声に受験生たちは驚きへ？　というような顔をする。

　マリエッタの見た目は完全に外国人であり、話し言葉はくせのない綺麗な日本語で返ってくるので、想像していた像とは異なり虚を衝かれてしまうのだ。更にマリエッタの見た目はふんわり可愛い系なのに、低めのセクシーなハスキーヴォイスをしており、さらにギャップがあり、幾人かの受験生は動揺させられてしまう。

　動揺させられた受験生達は、席についたあともチラチラとマリエッタに視線を送ってしまう。マリエッタは自分が妙に注目されているのを感じ、心の中で……こらこら、決戦の日なんでしょ、注意散漫よ。と、受験生にツッコミを入れる。そんな思いを余所に、受験生は着席し、時間前に全員教室に揃い、マリエッタはホッとしながら開始5分前に必要事項の説明を始める。

　流暢に低めのセクシーなハスキーヴォイスで日本語を話すマリエッタに、注意散漫な受験生達はボーッと眺めてしまい、マリエッタはやりづらさを感じながらも、しっかりと開始前に説明を終える。問題用紙と解答用紙も配り終え、しっかりと時計を確認しながら、開始時間ぴったりに手にしたストップウォッチを押す。

「……それでは、試験を開始します」
　マリエッタの開始の言葉を聞くと、一斉に受験生は問題用紙を開き解き始める。問題なく時間通り開始出来たことに、まずマリエッタは胸をなでおろす。

（試験監督って、楽そうに思えるけど、地味に疲れるのよね）
　無言の部屋の中、鉛筆が机の上で動く音だけが響き、静かな時間が流れていく。咳をすることすら憚られるこの雰囲気の中、全く物音を立てず見回ることは実はかなり難しい。服の擦れる音でさえ過敏に気になってしまう。うっかり物音を立てないように注意しながらマリエッタは教室を巡回する。

（受験生にとっては１年間の集大成だから緊張感が半端じゃないわ。迂闊に音を立てたら睨み殺されそう……）
　ひしひしと伝わる真剣さに、自然とマリエッタの表情も険しくなる。それ程重要であるからこそ、こうして監督が付き、不正がないか、問題が起こらないか監視しているのだ。

　試験会場を一巡しながら、試験を受けている受験生たちの様子を眺めていくマリエッタ。その際に問題用紙を眺める受験生の表情にも、マリエッタは注視していく。視線を追えば試験に集中しているかが分かり、不正をしていないかの確認にもなるためだ。

（この子、この問題で躓いてる。残念だけど浪人確定ね）
　問題用紙を一頁捲った地点で、熟考している受験生の表情が映る。その頁は基礎的な問題であり、そこが解けなくては先の問題を解くことは難しい。確認するためとはいえその受験生の合格の難しさが分かり、目を伏せた後、マリエッタは見回りを続ける。

（あの子は入ってから苦労しそうだわ）
　問題用紙と解答用紙を忙しなく見比べている受験生を見つけ、マリエッタは注視する。問題を解けているのにその解答を信じ切れていないように考えている。大学に入学してからは、自分で学びたいものを探し、自分で学んだことを消化し活かさなければならない。知識を得るだけでは入学した後苦労するかもしれない。そんな感想を浮かべながら、不正はなかったため、またマリエッタは巡回を続けていく。

　その時、マリエッタの後ろの方から机の音が聞こえる。マリエッタが音に振り返ると、問題と解答用紙を見比べていた受験生が、鉛筆の先でとんとんと問題用紙を叩いている。癖なのか、それとも焦りなのか。小刻みに音を鳴らし必死に考えている様だ。

　周りの受験生は注意等はしないが、表情は気になっていることが分かる。これはすぐ注意しなくては。とマリエッタは音を立てている受験生へと近付き、鉛筆をそっと指で掴む。

　突然指で鉛筆を掴まれ、受験生は驚きマリエッタを見上げる。マリエッタは体を屈ませ受験生に視線を合わせながら、音をあまり立てないように、口の前で人差し指を立てる。掴んでいた指を離し、鉛筆を指の腹でちょんちょんと叩いた後立ち上がり、受験生の耳元に小声で、あまり立てると失格になりますよ。と囁く。

　受験生は顔を伏せるように下げ、小さく何かを呟く。ごめんなさいと言ったのかもしれない。動揺させてしまったかしら……。と立ち上がったマリエッタは少し困った表情をしながら、音を立てていた受験生の後ろから様子を眺める。するとその受験生は先程と打って変わって悩む様子がなくなり、詰まっていた頁を捲り問題に取り組んでいる。その様子を眺め、良かったのかしら……？　と逆に動揺させられてしまった。

　その時後ろの方で鉛筆が床に落ちる音が聞こえる。マリエッタは鉛筆を落としてしまったのね。と振り返ると、慌てている受験生が映る。しかし、しっかりと説明は聞いていたようで、自分で拾おうとはせず、申し訳なさそうな、縋るような視線でマリエッタを見つめてくる。そんな視線を受け、マリエッタは安心させてあげたいと思い、笑顔で微笑み鉛筆を拾いに向かう。そんなマリエッタを見つめていた受験生はドキリとした表情になり、顔を赤くしてしまう。

（……あら、また余計なことしたかしら）
　むぅ、とマリエッタは困りながら、屈み込み鉛筆を拾うと、受験生の右前に鉛筆を置いていく。受験生は赤くした顔のまま、無言で頭を下げマリエッタにお礼をする。マリエッタはまた後ろの方からその受験生が心配で眺めてみる。鉛筆を掴んだ手は暫く止まっていたが、やがて動き出したことで、マリエッタは心の中で息をつき、また巡回を始める。

　すると、うずくまる様に前屈みになっている受験生をマリエッタは見つける。マリエッタは音を立てないように急ぎ足で近寄ると、どうしましたか？　と冷静に小声で訊ねる。すると受験生はお腹を抑え、お手洗いに……行きたいです。と小さく呻く。

　これは非常事態ね……。とマリエッタは思い、受験生が立てるか確認を取りながら、難しいと判断し、肩を貸しながら教室の外へと連れていき、外で待機していたフロワー担当の補助員を呼び、トイレへの案内に連れ添ってもらう。

　マリエッタは心配しながらも自分の役目を果たすため、巡回を続ける。それから暫くして、補助員と共に、先程トイレへ向かった受験生が戻ってくる。マリエッタは受験生のチェックを行いながら、問題無いことを確認し、席に誘導していく。先程まで青ざめた顔をしていた受験生は、今は焦りは見えるが、しっかりとした表情で問題に取り組み始め、マリエッタは大事がなくて良かったわ。とホッとする。

　それからは特に問題も起こらず、やがてストップウォッチが試験時間終了の知らせを鳴らす。マリエッタが鉛筆を置いてくださいと指示を出し、解答用紙を回収していく。マリエッタは回収漏れが無いか確認しつつ、次の試験開始時間と、それまでの休憩時間について説明していく。説明をし終えると休憩時間となり、受験生達は一斉に勉強をし始めたり、立ち上がり深呼吸をしたり、手洗いへ向かったりし始める。そんな様子を眺め、マリエッタも一息つく。

「あ、あの……っ」
　小さな声で声を掛けられ、マリエッタが振り返る。その声は先程試験中にトイレへ向かった受験生だった。

「さっきは気が付いてくださって、ありがとうございますっ。緊張して、お腹痛くなっちゃって……。試験官さんのお陰で、なんとか間に合いましたっ。え、えっと……今日はよろしくお願いしますっ」
　控えめに話す受験生はぺこりとマリエッタにお辞儀をする。

「それは良かったです。こちらこそよろしくお願いしますね」
「は、はいっ！」
　マリエッタが微笑み返すと、受験生は赤くなり、慌てて一礼し席へ戻って行く。何だか落ち着かない様子で勉強をし始めたが、試験中に見た苦しそうな様子は無くなっていたため、マリエッタは安心した。

　それからは特に問題の無いまま全ての試験は終了し、マリエッタは受験生を労い、お疲れ様でしたと伝える。その瞬間、教室に張り詰めていた緊張が和らいだような気がした。

　晴れた表情で挨拶をし帰っていく受験生もいれば、浮かない表情をして帰っていく受験生もいた。そんな姿を見ていると、自分も頑張らないとな。と思えてくる。

（私も、あの子達みたいに夢溢れて木天蓼大学に受験したのよね。……そうね。折角だから最後まで、夢溢れたままで挑みましょうか）
　大学院を修了した後、マリエッタはここで学んだことを活かしたい夢がある。その夢に向かうため、マリエッタは修士論文の発表に、真っ直ぐ向き合うことにした。その結果がどうなったとしても、今日夢に挑んだ子達のように、マリエッタは、最後まで諦めず、頑張りたくなった。